1.調伏
摩利支天の風1.調伏
夕闇が迫っている。
雨降る中、険しい山の中を飛ぶように走っている男がいた。背中に荷物を背負い、右手で笠を押さえ、左手に杖(つえ)を持って、身軽に飛んでいる。男は街道の側まで来ると木陰に身を沈めて街道を見渡した。
人通りはなかった。
男は杖を突きながら街道に現れた。色あせた筒袖(つつそで)にたっつけ袴(ばかま)、一見したところ職人といったなりだった。年の頃は四十の半ば位か、穏やかな顔付きだが目付きは鋭い。男は笠を上げて、霧にかすむ山を眺めるとゆっくりと歩き出した。
男の後ろから山伏(やまぶし)が錫杖(しゃくじょう)を鳴らしながら急ぎ足で近づいて来た。男は足を止めて振り返った。見るからに貫禄のある山伏だった。足取りはしっかりとしているが、その顔は深いしわが刻まれ、老いは隠せなかった。老山伏は職人風の男を追い越して行った。追い越す時、片手拝みに真言(しんごん)を唱えた。職人風の男も山伏に軽く頭を下げると再び、のんびりと歩き始めた。
明応七年(一四九八年)の夏の始めであった。
伊豆の三島と小田原を結ぶ湯坂道と呼ばれる街道を男は歩いていた。山道を抜けると湯煙の立ちのぼる湯本の湯治場(とうじば)に出た。
須雲川のほとりに何軒かの湯宿が建ち並んでいた。湯治客も滞在しているが、賑やかに栄えているという風ではない。湯治客のほとんどは近在の年寄りだった。湯治場を眺めながら男は吊り橋を渡った。川向こうにも湯治場はあった。
辺りはすっかり暗くなっている。
男は街道から脇道に入り、山の中へと入って行った。細い道をしばらく登ると小高い丘の上に出て、湯治場を見渡せる所に小さな庵(いおり)が立っている。男は庵の表の方へと向かった。
「よお、来たな」と声がした。
振り返ると先程の山伏が縁側に腰を下ろして笑っていた。
「生憎(あいにく)の雨降りじゃ。おぬしが来たら一風呂浴びようと言っていたところじゃ」
「それはいいですね」と職人風の男は笑った。「こっちに来てからというもの、湯に浸かるのが楽しみになって来ましたよ」
「年寄り臭い事を言うな。おぬしはわしらよりも、ずっと若いんじゃぞ」
「そうじゃよ」と庵の中から声がした。
囲炉裏の火の側に墨染め衣をまとった僧侶が座っていた。
「どうじゃ、ものになりそうか」僧侶は手にした茶碗を眺めながら聞いた。
「ええ」と職人風の男はうなづいた。「人数は何とか集まりました。後は船です。間もなく完成するとの知らせが参りましたので、明日にでも伊勢に向かおうと思っています」
「おう、船ができたか」と山伏が言った。
「関船(せきぶね)よりは小さい小早(こばや)と呼ばれる船です。それに乗って伊勢から帰って来れば、自然と扱い方も身に付くでしょう」
「うむ、そうじゃな」
山伏と僧侶は満足そうにうなづき合った。
「三浦の水軍と戦うのは、まだ先の事じゃが、敵の兵力を調べなければならん。よろしく頼むぞ」
僧侶は職人にそう言うと、持っていた茶碗を大事そうに箱の中にしまった。
「また、名物(めいぶつ)が手に入りましたか」と職人は笑いながら聞いた。
「天目(てんもく)じゃ。なかなかの掘り出し物じゃよ」
「贈り物ですか」
「うむ、機嫌を取っておかなくてはならん奴らが多いからのう」
僧侶、山伏、職人の三人は湯治場まで行き、ゆっくりと湯に浸かった後、湯帷子(ゆかたびら)に着替えて囲炉裏を囲んでいた。
2.韮山城
摩利支天の風2.韮山城
「やだよ~」と言いながら少年が走っていた。
腰に棒切れを挟んで、後ろを振り返りながら走っている。顔も手も墨で真っ黒だった。
少年を追いかけているのは、たすき掛けをした若い娘で、「菊寿丸(きくじゅまる)様」と叫びながら追いかけている。
少年は時々、その娘に向かって両手を振ったり、棒切れを振ったりしながら追いかけっこを楽しんでいた。
少年は庭に植えてある樹木(きぎ)の中を走り回って、木戸を開けると外へ出て行った。
「そっちへ行ってはいけませんよ」と後ろで娘が叫んでいたが、少年は笑いながら外に出て行った。
木戸を抜けるとそこは別世界だった。少年にとって、そこには珍しい物がいっぱいあった。大きな台所では女たちがワイワイ言いながら働いている。時には驚くほど大きな魚を見る事もあったし、綺麗な鳥を見る事もあった。包丁師と呼ばれる男が包丁でそれらを見事に切り刻んで行く様は見ていて面白かった。台所の向こうは広く、そこには何頭もの馬がいた。偉そうな髭(ひげ)を伸ばした侍(さむらい)もいる。皆、怖そうな顔をしていても少年には優しかった。
少年は台所の中を覗いたが、珍しそうな物が見あたらないので廐(うまや)の方へと向かった。いつもと違って、ひっそりとしていた。いつもなら井戸の側で馬の世話をしているのに、今日は馬の姿がなかった。遠侍(とおざむらい)と呼ばれる侍の溜まり場にも大勢の侍の姿が見えない。
おかしいなと思いながら、少年は廐の中に入って行った。
「いけませんよ」と後ろから声が聞こえて来るが、少年は振り向きもしなかった。
廐の中に馬はいた。しかし、二頭だけだった。少年は廐を通り抜けて、土塁の隅に立つ見張り櫓(やぐら)の方に向かった。石段を登って土塁の上に立つと広々とした景色が見渡せた。
「若様、どうなされた」と上から声が聞こえた。
見上げると二人の侍が笑っていた。一人は小五郎という知っている侍だった。
「顔が真っ黒じゃ」
「ねえ、登ってもいい」と少年が聞くと、
「来い、来い」と侍は手招きをした。
「駄目ですよう」と土塁の下では娘が息を切らせながら叫んでいる。
「七重(ななえ)殿、大丈夫じゃ、心配いらん」と侍は言った。
少年は喜んで見張り櫓の梯子を登った。櫓に上がるのは初めてだった。いつもは怖い侍がいて追い返されていたのに、今日はその侍はいなかった。
少年はやっとの思いで梯子(はしご)を登ると櫓の上に立った。梯子の下では冷や冷やしながら七重と呼ばれた侍女(じじょ)が見守っていた。
櫓の上は思っていたより高かった。下を見ると目がくらみそうだったが、回りの眺めは最高だった。少年はニコニコしながら回りの景色を眺めた。
3.箱根権現
摩利支天の風3.箱根権現
七歳になった正月、菊寿丸の生活に変化が起こった。早く、ここから出たいとは思っていたが、それはあまりにも早過ぎた。
母親や兄弟と別れなければならない。一番辛いのは侍女の七重との別れだった。両親や兄弟と別れる事はあっても、七重だけはいつも側にいてくれるものと思い込んでいた。ところが、七重とも別れなければならないという。
菊寿丸は七重が一緒じゃないと嫌だと駄々をこねた。
「お前はこれまで七重を困らせて来た。これ以上、七重を困らせるつもりか。七重はお前のお陰で、嫁にも行けないんじゃ。お前はわしの伜じゃ。将来、人の上に立つ人間じゃ。自分の事ばかり考えてはいかん。七重の事も考えてやれ」
父親はそう言った。今まで父親らしい事など言った事なかった父親が、初めて菊寿丸を叱った言葉だった。菊寿丸は泣きながら父親にうなづき、目に涙を溜めていた七重と別れた。
父親と山伏姿の風摩小太郎に連れて行かれた所は山の中の綺麗な湖の側にある箱根権現(ごんげん)だった。大勢の人がお参りに来ていて賑やかな所だった。鬼のような山伏も大勢いた。
菊寿丸は箱根権現の別当(べっとう)である金剛王院(こんごうおういん)という寺に入れられた。
「ここで学問を学び、偉い僧侶になるんじゃ」と父親は言った。
「学問だけじゃない。武芸もしっかりと身に付けろ」と小太郎は言った。
「たった一人で?」と菊寿丸は不安そうに聞いた。
「一人じゃない。お前と同じ位の子供が大勢いる。心配するな」
「いつまで、ここにいるの」
「それはお前次第じゃ。一生懸命に修行に励めば、早く出られる」
「早くって?」
「五年かのう」
「五年も?」
「五年なんて、すぐじゃ」と父親は言ったが、まだ七歳の菊寿丸には五年という月日はずっとずっと先のように思えた。
「今度、いつ来てくれるの」
「来月、また来る。わしが来られなくても、月に一度は誰かを来させるから心配するな」
「七重も来るの」
「うむ、そうじゃな。七重も母上と一緒に来させよう」
二人が帰ると海実(かいじつ)僧正(そうじょう)のもとでの厳しい喝食(かっしき)生活が始まった。
喝食とは稚児(ちご)とも呼ばれ、僧侶の世話や雑用などをしながら、読み書きを習う出家(しゅっけ)前の子供たちである。箱根権現内には多くの寺院があり、それぞれの寺院には必ず喝食がいた。中には食い扶持(ぶち)に困って、口減らしのために入れられた子供もいるが、菊寿丸の入った金剛王院には、そんな子供はいない。金剛王院は箱根権現の別当寺院として全山を支配しているため、そこに入る子供たちは、皆、相模(さがみ、神奈川県)国内の有力者の子供たちだった。
金剛王院の住職、つまり、箱根権現の支配者は海実僧正で、彼はかつて西相模一帯を支配していた大森氏の一族である。
大森氏は菊寿丸の父親、伊勢早雲によって滅ぼされ、西相模は伊勢氏の勢力範囲となっていた。当然、海実僧正は菊寿丸の存在を快く思ってはいなかった。幸い、菊寿丸と同じ頃、金剛王院に入って来た子供たちは皆、伊勢氏の被官(ひかん)となった者たちの子供なので、菊寿丸の事を悪く言う者はいなかった。
菊寿丸は海実僧正の一族が、父親のために滅ぼされたという事は当然、知らない。時折、僧正が菊寿丸を冷たい目付きで見る事があっても、まったく気にせずに仲間たちと共に楽しく暮らしていた。
4.旅の空1
摩利支天の風4.旅の空1
菊寿丸は山伏姿になって、父親からもらった小太刀(こだち)を差し、金剛杖(こんごうづえ)を突いて旅に出た。箱根権現で父親と別れ、愛洲太郎左衛門に連れられて沼津へと向かった。
菊寿丸は初めて海を見た。
話には聞いていたが、想像していたよりずっと海は大きかった。港には大きな船が浮かび、様々な人々が行き来して賑わっている。箱根権現も参詣者でいつも賑やかだったが、ここはまたちょっと違う賑やかさだった。港町全体が活気に溢れ、人々は皆、忙しそうに走り回っていた。
『小野屋』という商人の屋敷に連れて行かれ、菊寿丸は久し振りに母親と妹に再会した。妹とは四歳の時に別れて以来だった。もう十二歳になり、やけに大人びて見えた。ニコニコしながら見つめられると妹ながら変な気持ちだった。さらに驚いたのは一緒に来ていた七重だった。七重は菊寿丸が箱根権現に入ってから、笠原新次郎と一緒になって、すでに二児の母となっていた。久し振りに会って、幼かった頃の事が思い出されて照れ臭かった。
七重は成長した菊寿丸を見ながら、「御立派になられて‥‥」と涙を溜めていた。
菊寿丸の前に見た事もない料理がずらりと並べられ、小野屋の女将というのが挨拶に現れた。百合と名乗った女将は三十前後の綺麗な人だった。
菊寿丸がボーッと見とれていると隣の太郎左衛門が、「わしの娘じゃ」と言った。
菊寿丸は太郎左衛門と百合を見比べた。どうしても二人が親子だとは信じられなかった。泣く子も黙る程、貫禄のある太郎左衛門と観音様のように美しい女将はどう考えてみても結び付かなかった。
次の朝、菊寿丸は皆に別れを告げて、太郎左衛門と一緒に小野屋の船に乗り込み、西へと向かった。
船に乗るのが初めての菊寿丸は見晴らしのいい矢倉の上に立って、いつまでも海を眺めていた。
「どこに行きたい」と突然、太郎左衛門の声がした。
振り返るといつの間にか、太郎左衛門がすぐ後ろに立っていた。
「この船はどこに行くのですか」と菊寿丸は聞いた。
「伊勢じゃ。しかし、あちこちに寄って行く。行きたい所があったら連れて行ってやるぞ」
「分かりません。韮山と箱根権現しか知りませんから」
「そうか、そうじゃったのう。それじゃあ、まず、駿府(すんぷ)にでも行ってみるか」
「駿府?」
「駿河の国の府中じゃ。お前の従兄(いとこ)の今川治部大輔(じぶだゆう)がいる。聞いた事ないか」
菊寿丸は首を振った。
「そうか。お前の親父の妹の子が治部大輔といって、駿河の国のお屋形様じゃ。一度、会っておいた方がいいかもしれんな」
江尻津(清水港)で船を降りた二人はその日、港の近くにある小野屋に泊まり、次の日、鎌倉街道を駿府に向かった。
5.旅の空2
摩利支天の風5.旅の空2
寅峰丸を加えて四人となった一行は美濃の国から近江(おうみ)の国(滋賀県)へと入った。
初めの頃はお互いに黙り込んでいた菊寿丸と寅峰丸も近江の国に入った頃には何やら話をしながら歩いていた。一歳年上の菊寿丸は兄貴風を吹かせていたが、寅峰丸の方はすんなりと従ってはくれないようだった。
「あの二人、喧嘩でもしかねない雰囲気じゃぞ」と宗長は心配していた。
「二人共、ガキ大将ですからね」と太郎左衛門は答えた。
「先が思いやられるのう」
「将来、関東と関西をしょって立つ二人ですからねえ、仕方ないでしょう」
「関東と関西をしょって立つか、うむ、成程のう。そうなってほしいもんじゃな」
琵琶湖が見えた。
菊寿丸と寅峰丸は声を挙げて琵琶湖に向かって走り出した。
「やはり、まだ子供じゃのう」と宗長は言ったが、湖畔に行った二人は手頃な棒切れを捜すと決闘を始めた。
「おいおい、放っておいていいのか」
「大丈夫でしょう。二人とも喧嘩慣れしています。怪我しない程度にやるでしょう」
太郎左衛門は平気な顔をして、二人の決闘を眺めていた。宗長は呆れ顔で決闘の様子を見守った。
菊寿丸と寅峰丸は掛声をかけながら相手を打っていた。勝負はなかなかつかなかった。太郎左衛門は二人の動きを厳しい眼差しで見つめていた。
「それまで!」と太郎左衛門の鋭い声が響いた。
菊寿丸と寅峰丸の動きが止まった。
「お前たち二人の腕は分かった。今の所は互角じゃ。これからの修行次第じゃな。ところで、菊寿丸、お前は何月に生まれた」
「十月です」
「寅峰丸は?」
「二月です」
「そうか、年は菊寿丸の方が一つ上じゃ。しかし、実際は四ケ月しか違わん。いいか、これからは対等じゃ。同い年だと思って付き合え。分かったな」
菊寿丸と寅峰丸はお互いを眺めてから、太郎左衛門の方を向くとうなづいた。
「よし。これから面白い所に連れて行ってやる」
「どこです」と菊寿丸は聞いた。
「お前らの好きな喧嘩を教えてくれる所じゃ」
「飯道山で修行するには年が足らんのじゃないのか」と宗長が聞いた。
太郎左衛門はうなづいた。「あそこで修行するには早すぎますが、ああいう所を見せておくのもいいでしょう」
「うむ。天狗にならんようにのう」
一行は琵琶湖沿いに南下して、甲賀の飯道山に向かった。