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摩利支天の風~若き日の北条幻庵

小田原北条家の長老と呼ばれた北条幻庵の若き日の物語です。

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14.江戸城

14.江戸城

 


 早雲の三回忌も過ぎた。

 江戸城の扇谷上杉修理大夫はついに管領になる事を夢見て、鉢形城の管領上杉兵庫頭を攻撃した。しかし、敗れて、多くの兵を失い江戸城に逃げ戻って来た。

 今こそ、江戸城を攻め取るべきだと、三郎は韮山城に出向いて、兄、新九郎に進言したが、新九郎は首を振った。

「確かにお前の言う通り、江戸城を落とす事はできるかもしれない。しかし、孤立している江戸城は、すぐに取り戻されてしまうじゃろう。多摩川以南だけではなく、江戸城の回りの武士たちも味方に付けなくてはならん。焦る事はない。着実に少しづつ片付けて行く事じゃ」

 新九郎は言い聞かせるように言った。

 三郎は兄の言う通りだと納得して、敵の寝返り工作をさらに進めた。その頃、妻の小笹が初めての男の子を産んだ。三郎は勿論の事、城下の者たち全員が大騒ぎをして喜んだ。

 三郎の跡を継ぐべき男の子は笹寿丸(ささじゅまる)と名づけられた。

 大永二年(一五二二年)の正月、新九郎は本拠地を韮山城から小田原城に移し、城の拡張工事を始めた。城下にある鶴森(つるもり)明神(後の松原神社)も新たに再建して、別当の杉之坊に大和の国、大峯山で修行を積んでいた風摩小太郎の弟、玉滝坊(ぎょくりゅうぼう)が入った。三郎が近江の飯道山に行った時、剣術師範だったあの玉滝坊が帰って来たのだった。

 三郎は小机にやって来た玉滝坊と小野屋の小太郎の部屋で再会した。

「久し振りじゃな」と玉滝坊は馴れ馴れしく三郎に挨拶した。

「なんじゃ、知っていたのか」と小太郎は驚いた。

「わしが飯道山にいた頃、太郎坊殿とやって来て、百日行をやってのけたわ。あれはもう十年、いや、もっと前になるかのう」

「私が十五の時ですから、十五年前です」と三郎は言った。

「十五年も前か‥‥早いもんじゃ」

「ほう」と唸りながら小太郎は三郎を見た。「飯道山で百日行をやったとはのう。しかも十五の時にか‥‥こいつはたまげたわ」

「あの時、もう一人いたが、あいつはどうしてる」と玉滝坊は聞いた。

「あいつは美濃にいます。長井新九郎と名乗って活躍しているらしいです。美濃の国を乗っ取ると言っていますが、どうなる事やら」

「長井新九郎か、うちのお屋形様と同じ名じゃな。大物になるかもしれんな」と小太郎は笑った。

「それで、飯道山の後、大峯に行ったのか」と小太郎は玉滝坊に聞いた。

 玉滝坊はうなづいた。「大峯と熊野で修行して、先達(せんだつ)となり、さらに聖護院(しょうごいん)に入って、本山派(ほんざんは)の先達年行事職(ねんぎょうじしき)となりました」

「何ですか、本山派の先達年行事職というのは」と三郎は玉滝坊に聞いた。

「亡くなられたお屋形様にな、関東の山伏を一つにまとめてくれと頼まれたんじゃよ」と玉滝坊は言った。「山伏は大まかに分けると天台宗系と真言宗系の二つに分けられるんじゃ。天台宗系を本山派といい、真言宗系を当山派(とうざんは)というんじゃ。二つに分けられるといっても、はっきりと分かれているわけではない。大峯山には天台宗系の山伏もいるし、真言宗系の山伏もいる。お山というのは修行の場であって、どっちに属していようとも修行できるようになっている。飯道山もそうじゃし、大山も箱根もそうじゃ。はっきり言って、山伏たちを一つにまとめる事は難しい。しかし、いつかは誰かがやらなければならん。新しい国を作るためには、山伏たちを一つにまとめて、伊勢家の支配下に置かなければならんのじゃ。わしは引き受ける事にした。関東の山伏をまとめるに当たって、わしは本山派を選んだ。元々、わしは天台宗に属していた事と、本山派の方がまとめやすいと思ったからじゃ。本山派の中心は京都の聖護院じゃ。聖護院の門跡(もんぜき)は四十年程前に、本山派の支配を強化するために関東を旅した事があるんじゃ。反面、当山派の方は上方での支配力は強いが関東では弱い。山伏たちはそれぞれのお山との結び付きは強いが、天台宗とか真言宗とかにはこだわらない者が多い。たまたま師匠が天台宗系だったから天台宗系の山伏になり、真言宗系だったら真言宗系の山伏になるといったようなもんじゃ。わしはお屋形様のお力で聖護院に入り、修行を積んで先達年行事職を手に入れた。この資格があれば、相模国内の山伏たちをまとめる事ができるんじゃ」

「山伏たちにもそんな組織があったのですか、知りませんでした」

「組織といっても、まだ完全ではない。聖護院が全国の山伏たちをまとめようと考えたのも元々は銭集めなんじゃよ。応仁の乱以後、公家や寺社の荘園は武士たちに奪われ、公家たちは地方に行き、芸を売って生きるようになり、寺社は武士の保護下で生き残るようになった。聖護院も門跡寺院として多くの荘園を持っていたが、ほとんどを失い、生き残るために全国の山伏をまとめて、役銭(やくせん)を集めようとしたんじゃよ。もっとも、組織というものは上の者が権力を振りかざして、下の者から銭を吸い上げるために作られる事が多いがのう」

「風摩党の組織もですか」と三郎は冗談半分で聞いた。

「うむ。風摩党にもないとはいえん」と小太郎は真剣に答えた。「伊勢家が大きくなるにつれて、風摩党も大きくなり過ぎた。父上が首領の頃、父上は風摩党の者たち、全員の顔を覚えていた。しかし、こう風摩党が大きくなると、わしには全員の顔が分からなくなって来た。一番組、二番組、五番組はいいとしても、三番組と四番組は人数が多すぎて、とても、一人の頭では目が届かん。関東のいたる所に潜入しているからのう。この間、三番組の者が博奕(ばくち)にのめり込んで、配下の者たちから銭をかき集めていたのが発覚した。そいつはわしの名を出して、銭を集めていたそうじゃ。また、四番組の者が自分のために盗みを繰り返していた事もあった。そいつらは見せしめとして殺したが、隠れて、悪さをしている者たちも多いじゃろう。特に四番組の者たちは盗みの術を身に付けている。一歩間違えば盗っ人になる。その一歩というのは説明する事は難しい。本人の判断に任せるしかない。四番組に入れる時、武術の腕だけでなく、性格とか人間性とかも考えて入れてはいるが難しい。前に愛洲殿がそのうちに目付(めつけ)を入れなくてはなるまいと言っていたが、確かに組織が大きくなると、それを取り締まる目付役が必要かもしれん。仲間たちを信じていないようで嫌な事じゃがな」

「目付役か‥‥嫌な役目じゃな」と玉滝坊も言った。「しかし、風摩党をまとめて行くには必要かもしれん」

「若様、愛洲殿は目付役が必要になった時は若様に頼めと言っておった。風摩党を取り締まる者は伊勢家の者でなくてならんとな」

「私が目付役ですか」と三郎は驚いて、小太郎と玉滝坊の顔を見比べた。

「今はまだいい、先の事じゃ。一応、考えておいて下され」と小太郎は言った。

「実際問題として、そいつは難しいぞ」と玉滝坊は言った。「風摩党の者を配下に使う事はできまい。となると、また、別な組織を作らなければならん。風摩党には分からんようにな。しかも、風摩党の者以上の腕を持っていなくてはならん。難しいのう」

「甲賀から連れて来るしかあるまいな。まあ、その話は、目付役が必要になってからでいい。この事は皆には内緒じゃ」

 三郎は目付役なんか必要ない事を願った。人のあら捜しをするような事はしたくはなかった。しかし、伊勢家の勢力が大きくなればなる程、風摩党の者が増えるのは当然の事だった。

 風摩党の者は敵地にばかりいるのではなかった。侵入して来る敵の忍びを倒すために、味方の城下には必ずいる。今現在でも、小机を初めとして、多米三郎左衛門の青木城、伊勢新六郎の玉縄城、山中修理亮の三崎城、愛洲兵庫助の浦賀城、大道寺蔵人(くろうど)の鎌倉の代官所、福島(くしま)伊賀守の大庭城、大藤金谷斎(きんこくさい)の田原城、伊勢新九郎の小田原城、笠原新左衛門の韮山城、富永三郎左衛門の丸山城、清水太郎左衛門の加納矢崎城と守るべき所はかなりある。江戸城を落とせば、そこも守らなくてはならなくなる。

 組織が大きくなれば、当然、規律を乱す者は現れるだろう。風摩党が伊勢家と共に生きて行くためには目付役も必要かもしれない。そして、その役をやれるのは自分しかいなかった。嫌な役だが、その時は引き受けなければならないと三郎は覚悟を決めた。


 青木城の多米三郎左衛門と共に、多摩川以南の武士たちを味方に引き入れる事に成功した三郎は、世田谷御所と呼ばれる吉良(きら)氏を味方にするべく密かに動いていた。

 吉良氏は古河公方足利氏の一族であり、勢力はそれ程なかったが、関東の武将たちから御所様と呼ばれて尊敬されていた。世田谷と蒔田(まいた)に領地を持ち、すでに蒔田は伊勢氏の勢力内に入っていた。伊勢氏は吉良氏の土地を侵略する事なく保護をした。武蔵の国を狙っている伊勢氏にとって、吉良氏を味方につける事は絶対に必要な事だった。三郎は新九郎の代理として吉良氏に近づいて、様々な贈り物をして懐柔し、扇谷上杉氏と伊勢氏が戦う事になっても、干渉しないという約束を取り付けた。

 小田原の新九郎は北相模を平定するのに手間取っていたが、大永三年(一五二三年)にようやく平定して、新たに津久井城(津久井町)を築き、内藤大和守に守らせた。相模全土の平定を終え、新九郎は父、早雲がやろうとしてできなかった箱根権現の社殿の新築を始めた。

 社殿は六月に完成し、落慶式(らっけいしき)が行なわれ、三郎も呼ばれた。久し振りに会った海実僧正は随分と老け込んでいた。口に出しては言わなかったが、三郎が早く跡を継いでくれる事を願っているようだった。

 落慶式の後、三郎は江戸までの海岸線を確保するために、風摩党の海賊たちと共に行動を開始した。羽田浦の行方(なめかた)氏には少してこずったが、八月には寝返らせる事ができた。

 品川浦には鈴木雅楽助(うたのすけ)がいた。雅楽助はかつて太田道灌の重臣だった道胤(どういん)の次男だった。道灌が殺された後、道胤は隠居して、伊豆の江梨浦を長男の兵庫助に譲り、品川浦を次男の雅楽助に譲った。

 兵庫助は道灌の跡を継いだ六郎左衛門が江戸城に戻れるように応援していた。そして、早雲が伊豆に攻め入った後は江梨浦を守るために早雲の家臣となった。次男の雅楽助は品川浦を守るため、仕方なく、道灌を殺した扇谷上杉氏に仕えたが、六郎左衛門が江戸城に戻ってからは、再び、太田氏の家臣となった。六郎左衛門が三浦道寸の婿だったので道寸を救うため、雅楽助は兄、兵庫助のいる伊勢家の水軍と度々、戦っていた。

 すでに、兄の兵庫助は亡くなっていたが、説得次第では寝返るだろうと三郎は小野屋の夢恵尼の力を借りて雅楽助に近づいた。雅楽助は『紀州屋』と号す商人でもあったため、同じ商人である夢恵尼と商売上の付き合いがあった。三郎は『紀州屋』の庭園内にある茶室で、夢恵尼を仲立ちとして雅楽助と対面した。

 雅楽助は六十前後の年配で、鶴のように痩せた男だった。商人というよりは、よく日に焼け、目付きが鋭く、水軍の親方という印象の方が強かった。

「このお茶室は親父が建てたんじゃ」と雅楽助はお茶を点てながら言った。「まだ、道灌殿が生きておられた頃じゃった。親父は道灌殿をここに招待して、お茶を御馳走すると言っていたが、それはかなえられなかった。親父は死ぬまで、その事を悔やんでいた‥‥道灌殿が亡くなって、すでに三十年以上も経ち、世の中は変わった。道灌殿を殺した修理大夫(定正)も亡くなった。修理大夫の跡を継いだ建芳殿も亡くなった。道灌殿の跡を継いだ六郎左衛門殿も亡くなった‥‥六郎左衛門殿は江戸城に戻る事はできたが、父、道灌殿が建てた静勝軒には入れなかった。六郎左衛門殿の子の源六郎殿もじゃ。江戸城にいながら、静勝軒を毎日、眺めながら、そこに入る事ができないというのは辛い事じゃ‥‥わしは親父に代わって、ここに六郎左衛門殿を招待した。やがて、わしが亡くなり、伜の奴が源六郎殿を招待する事となろう。その時、源六郎殿が晴れて、江戸城の主である事をわしは願うばかりじゃ」

 雅楽助はそれ以上の事は言わなかった。しかし、三郎には雅楽助の言おうとしている意味は分かった。雅楽助にとって主人は、飽くまでも太田氏だった。太田氏が江戸城の城主でいられれば、伊勢氏が扇谷上杉氏を倒しても構わないという意味だった。三郎はさっそく小田原に行って、兄、新九郎に雅楽助の事を相談した。

 三郎は得意になっていたが、兄は渋い顔をして、「江戸城を太田氏に任せるわけにはいかない」とはっきりと言った。

「どうしてです」と三郎は詰め寄った。「江戸城主にしてやると言えば、太田氏は必ず寝返りますよ。太田氏が寝返れば、江戸城はすでに落ちたも同然です」

「確かに、お前の言う通りじゃ。しかし、わしらの目標は江戸城を取る事ではない。江戸城を足掛かりとして、武蔵の国を取る事じゃ。武蔵を平定するため、江戸城は前線基地となる。その江戸城を太田氏に預けたままでは、何もできん。また、太田氏を江戸城主にすれば、扇谷上杉氏に反発している者たちが江戸に集まり、かつての道灌殿のように勢力を盛り返す可能性が高い。道灌殿が亡くなってから、かなりの時が経っているが、未だに道灌殿の評判は高い。その孫が江戸城主となれば、期待する者も多いじゃろう。扇谷上杉氏もその危険性を知っているから、江戸城を太田氏に任せる事はしなかったんじゃ」

「そうか‥‥」と三郎は納得して、うなづいた。「江戸城を落とす事ばかり考えていました。先の事まで見えなかった」

「しかし」と新九郎は言った。「江戸城を落とすためには、お前の言う通り、太田氏を内応させなければ不可能じゃ。道灌殿が縄張りした江戸城をまともに攻めて落とせるわけがない。かと言って、新井城のように兵糧攻めする事もできん。回り中、敵じゃからな。お前の独断という事で、そのまま、話を進めてくれ」

「江戸城の城主にするという事で太田氏を誘うのですか」と三郎は驚いて聞き返した。

「お前の独断という事でな」

「という事は‥‥」

「江戸城が落ちた後、わしはそんな約束をした覚えはないと言って、しかるべき者を城代として入れる。太田氏もそのまま、江戸城にいても構わんがの」

「俺が独断で約束を付けて、落城した後、約束を破った事に対して俺が責任を取るわけですか」

「頭でも丸めて許してもらう事じゃな」

「そうか、成程」と三郎は手を打った。「ついでに、しばらく、関東から姿を消す事にしましょう」

 新九郎は大きくうなづいた。

 三郎が小田原から帰り、風摩党の者たちを使って、太田源六郎との内密の会見ができるように取り計らっていた時、久し振りに風輪坊が姿を表した。

 風輪坊は泥と血にまみれていた。

「忍辱坊を倒しました」と風輪坊は言って、三郎に小さな包みを差し出すとそのまま、気を失ってしまった。

 三郎は侍女たちに風輪坊の看護を頼み、城下にいる小太郎を呼びに行かせた。

 風輪坊から渡された包みの中には、何枚もの袋をかぶった桐の箱が入っていた。箱の四面には四季の絵が描かれてあり、漢詩も添えられてあった。絵の横に雪舟と書かれ、漢詩の下には万里と書かれてある。風摩党の者たちの命を奪った、あの『幻の茄子』に違いなかった。

 三郎は紐を解いて蓋(ふた)を開けた。蓋の裏側に『命名、幻の茄子、銭泡(ぜんぽう)』と書いてあった。

 粟田口善法が以前、銭泡と号していた事は愛洲移香斎より聞いていた。まさしく、幻の茄子に間違いなかった。雪舟、万里、銭泡と三人の名が書いてあるだけでも大したお茶入れだった。お茶入れは豪華な金襴(きんらん)の袋に入っていた。ようやく、袋から出て来たお茶入れは幻という名にふさわしい、何とも言えない味わい深い色をしていた。よく見ると傷も付いているが、名物と呼ばれるにふさわしい風格を備えていた。

 小太郎に見せると、「成程、こいつが人の心を惑わして、何人もの命を奪った憎き奴か」と手に取って眺めた。

「どうします。粉々に割ってしまいますか」と聞くと、小太郎は首を振った。

「こいつには罪はない。若様が持っていて下され。風輪坊はこいつを若様に贈りたくて、命懸けで戦ったんじゃからな」

「風輪坊殿はいかがですか」

「大丈夫じゃ。傷の方は大した事はない。最後の気力を振り絞って、ここまでやって来たんじゃろう。若様の顔を見て安心して気を失ったんじゃ‥‥これで、風雷坊も安心して隠居できるな」

「というと、風輪坊殿が四番組の?」

「うむ。頭になる」

「そうでしたか。風輪坊殿なら、立派なお頭になる事でしょう」

 江戸の城下にいる風摩党の絵師、高梨孤山(こざん)によって、三郎と太田源六郎の極秘の会見が実現したのは十一月の半ばだった。

 源六郎は絵に懲っていて、孤山を城内の香月亭(こうげつてい)に呼んでは絵を習っていた。香月亭は江戸城の中城(なかじろ)にあって、以前、道灌の家族が暮らしていた屋敷だった。

 江戸城は根城(ねじろ)、中城、外城(とじろ)の三つの曲輪に分けられていて、根城には江戸城の象徴である三層建ての静勝軒や客殿である含雪斎(がんせつさい)や泊船亭(はくせんてい)があり、奉行所(ぶぎょうしょ)もある。後の本丸に相当した。道灌は静勝軒で戦の作戦を練ったり、書物を読んだり、招待した客たちを持て成した。今は扇谷上杉修理大夫が暮らしている。中城は二の丸に相当し、芳林寺(ほうりんじ)と平川神社があり、梅林の隣に香月亭がある。漆桶万里(しっとうばんり)が道灌に呼ばれて、三年近く暮らしていたのも中城だった。三の丸に相当する外城が一番広く、常に兵たちが武芸の修行に励んでいた。

 香月亭にて源六郎に絵を教えながら孤山は、この前、紙売りの商人が、三郎が描いた絵を見せてくれたが中々な腕だと言って褒め、源六郎が三郎に関心を持つように仕向けた。

 源六郎が三郎の事を聞くと、孤山は噂によれば、三郎は太田道灌を尊敬していて、茶の湯や連歌にも詳しく、若い割には人望のある武将だと言う。源六郎は乗せられて、是非、その絵が見たいと言う。その絵は遊女屋に買い取られたと言って、孤山は源六郎を城下に連れ出し、遊女屋、般若亭(はんにゃてい)に行って三郎の絵を見せる。勿論、その絵は三郎が描いたものではなく、孤山の弟子が描いたものである。その絵を見てうなった源六郎は、三郎の事をもっと知りたいと言い出す。そこで、孤山は自分は伊勢家の回し者で江戸を探っていたと正体をばらす。

 驚く源六郎に向かって、武蔵進攻の責任者である三郎が源六郎に会いたがっている事を告げ、さらに、伊勢氏が江戸城を落とした暁には、源六郎を江戸城の城主に任命すると言っていると告げた。

 孤山は命懸けだった。下手すれば、その場で斬られる事も考えられた。源六郎は何も言わず、遊女が現れるとその話は打ち切りとなった。しかし、二日後、源六郎自身が孤山を訪ねて来て、三郎に会おうと言い出した。

 十一月の半ば、修理大夫が河越に行った留守、孤山の屋敷にて、三郎は源六郎と会った。源六郎は三郎よりも二つ年下だったが、道灌の孫という事に誇りを持ち、態度は尊大だった。三郎は新九郎の代理として、源六郎を立てながらも、対等の立場は崩さなかった。

 話はうまく行った。伊勢氏が江戸城を攻撃した際は、源六郎の手引きによって、江戸城を焼く事なく、伊勢氏に明け渡し、源六郎は伊勢氏の重臣として江戸城を守るという事に決められた。互いに起請文(きしょうもん)を交わし、後の詳しい連絡は孤山を通して行なうという事で会見は終わった。

 

 

 


 江戸城の扇谷上杉修理大夫は永正十八年(一五二一年)八月の管領上杉兵庫頭との負け戦の後、多摩川を越えて出陣して来る事はなかった。

 負け戦の打撃は大きく、修理大夫が伊勢氏に対して出陣したくても思うように兵が集まらなかった。河越城は管領の鉢形城に対して守りを固め、岩付城は古河公方に対して守りを固めているため、伊勢氏を攻撃するために兵を江戸城に送る事はできなかった。自分の兵が思うように使えないので修理大夫は、甲斐(山梨県)の武田陸奥守(むつのかみ)信虎と手を結び、相模の国に進攻してもらった。

 陸奥守はその年の十一月に甲斐に攻めて来た今川勢を倒し、その勢いに乗って、相模の津久井郡まで攻めて来た。相模川の上流において、伊勢軍と武田軍の戦が度々行なわれたが、修理大夫が動かないので、陸奥守も相模進攻を諦め、大永三年(一五二三年)には伊勢氏の相模平定は完了した。

 大永四年の正月、小机城では例年のごとく、新年を祝う様々な行事が行なわれていた。

 三郎は小田原まで新年の挨拶に行った帰り、風ケ谷村に寄って風摩党の者たちと新年を祝った。小机に帰って来た後は、家臣たちの挨拶を受けた。いつもと変わらぬ正月だったが、裏では風摩党の者たちが、江戸城攻略に向けて動いていた。一番組と二番組は小机から品川までの道を確保するため先行し、四番組は江戸に行って、城下にいる三番組の者と共に待機し、五番組は商船を装って江戸の港に入り、敵の水軍を倒すための準備をしていた。

 新九郎の率いる小田原からの大軍が小机城に入ったのは正月の十日だった。十一日には多摩川を越え、十二日には品川に着陣した。

 愛洲兵庫助らの率いる水軍は、積んで来た兵糧を品川に降ろすと、三郎率いる小机衆を乗せて一足先に江戸に向かった。その中に鈴木雅楽助の率いる水軍も加わった。

 玉縄城の新六郎は青木城の多米三郎左衛門と共に、本隊とは別に品川を迂回して、江戸へと向かった。

 十二日に扇谷上杉修理大夫は決戦を迎えるべく、品川に向けて出陣し、十三日の早朝より両軍は高輪台でぶつかった。予想通り、江戸城の留守を守っていたのは太田源六郎だった。修理大夫は源六郎が戦で活躍する事を恐れていた。源六郎が先鋒を願え出れば出る程、修理大夫は源六郎を出陣させなかった。

 修理大夫の先鋒は曽我豊後守と神四郎の兄弟だった。対する伊勢氏の先鋒は新九郎の馬廻衆(うままわりしゅう)、多米六郎と清水新八郎。初戦は引き分け、お互いに第二陣、第三陣へと合戦は続いて行った。

 品川を迂回して行った新六郎と多米三郎左衛門は渋谷で敵とぶつかり、渋谷城を守る渋谷氏と合戦に及んだ。

 江戸に向かった水軍は、江戸湾で上杉方の水軍と海戦になったが、すでに江戸港に入っていた風摩党の海賊が敵の後方から攻撃を仕掛けたため、敵は窮地に陥って下総の方に逃げて行った。

 三郎率いる小机衆は上陸して、太田源六郎の手引きによって楽々と江戸城を占拠した。やがて、渋谷城を落とした新六郎と多米三郎左衛門率いる兵も江戸に到着し、守りを固めた。

 修理大夫が新九郎に敗れて、江戸城に逃げ帰って来たのは昼過ぎだった。すでに、江戸城は伊勢家の兵に奪われ、板橋城へと逃げ込んだ。逃げる修理大夫を追って、新九郎は板橋城に攻め寄せ、猛攻を加えた。修理大夫は城を支える事ができず、河越を目指して逃げて行った。新九郎は深追いする事なく、兵をまとめると江戸城に入った。

 首実験の後、新九郎は江戸城の城代として、根城に三郎の家老だった富永四郎左衛門を入れ、外城に同じく三郎の家老、遠山隼人佑を入れ、太田源六郎はそのまま、中城の香月亭にいるという事に決まった。当然、源六郎は怒って、三郎に詰め寄って苦情を言った。

 三郎はそんなはずはないと言い、新九郎と交渉して来ると静勝軒に向かった。静勝軒で頭を丸めた三郎は、香月亭に戻って源六郎に謝った。

「兄が言うには、江戸の地はまだ不安定で、地盤をしっかりと固めるまでは、そなた一人には任せられないという。二、三年して、地盤がしっかりと固まったら、そなたを江戸城主に任命するとの事じゃった。そなたとの約束を破り、頭を丸めた位では許してはもらえまい。私はどうも武士には向いていないらしい。子供の頃、箱根権現に入れられ、坊主になるために育てられた。その反発もあって、武士に戻って小机城主となったが、どうも、うまく行かなかった。私はどうも戦の駆け引きというのが苦手です。頭を丸めたこの期に、出家して戦から手を引こうと思っております。今回は誠に、どうも申し訳ない。どうぞ、この私に免じて許して下され」

 源六郎は、自分も考えが少し甘かった。江戸城主にはなれなかったが、自分が失ったものは何もない。これからは伊勢家の家臣として活躍して、自分の実力で江戸城主になってみせると言ってくれた。

 新九郎は武蔵進攻の足掛かりとして、江戸城を奪い取ると、伊勢の姓を『北条』に改めた。関東の地をまとめるに当たって、伊勢という姓は関東に馴染みが薄く、古くから関東に根を下ろしている上杉氏と戦うには不利だった。そこで、伊勢氏と同じ平氏であり、関東の地を治めていた北条を名乗る事にした。その事は父、早雲も考えていて、伊豆に進攻した時、北条姓を名乗る後家を助けて、その娘を新九郎の嫁に迎えていた。新九郎は妻の姓を名乗って、北条新九郎氏綱と名乗りを改めた。当然、早雲の子供たちは皆、北条姓となった。

 修理大夫の側室になっていたおうきは解放された。十三年間、修理大夫と共に暮らしていたおうきには修理大夫との間にできた子供が二人いた。

 三郎は久し振りにおうきと会い、何と言ってやればいいのか分からなかった。おうきは力なく三郎に笑いかけ、「やっと、終わったのね」とひとこと言った。

 その言葉の中には様々な気持ちが含まれているに違いないが、三郎には分からなかった。修理大夫の側室になった事が幸せだったのか、不幸だったのか‥‥十三年は長過ぎた。十八歳の娘ももう三十一歳になっていた。おうきは二人の娘を連れて風ケ谷村に帰って行った。

 新九郎が江戸城にいた二月、その隙を狙って、甲斐の武田陸奥守が再び、津久井郡に攻めて来た。新九郎は後の事を富永、遠山、太田の三氏に任せ、兵をまとめて相模へと帰った。三郎も小机に帰って、出家するための準備を始めた。

 新しい小机城主として、新九郎の次男、乙千代丸が小田原からやって来た。乙千代丸はまだ八歳だった。小机が前線でなくなった今、八歳の乙千代丸でも城主は勤まった。三郎の長男、笹寿丸はまだ四歳だったため、笹寿丸が成人するまで、乙千代丸が城主を代行するという事だったが、早い話が、父親がいなくなるので、笹寿丸の遊び相手として乙千代丸が小机に来たのだった。

 三郎は留守の事を家老の笠原平左衛門に任せて、箱根権現に向かった。海実僧正のもとで正式に出家して長綱(ちょうこう)と名乗った三郎は京都へと旅立って行った。

 丁度、桜が満開に咲き誇る頃だった。三郎の供には、四番組の頭を引退した風雷坊と下男に扮した四番組の者が三人従った。さらに、三郎を陰で守るため、十人の者が密かに従っていた。

 三郎は三年間、京都で修行を積んで、帰って来ると箱根権現の別当職に就いた。長綱僧正と呼ばれ、早雲の遺言通りに、箱根権現を解体した。十年間、別当職を勤めた後、引退して幻庵宗哲(げんあんそうてつ)と名乗り、九十七歳で亡くなるまで、一族の長老として北条家を支えると共に、裏で活躍している風摩党の者たちの面倒を見ていた。

 幻庵の死の翌年、五代続いた北条家は豊臣秀吉に滅ぼされた。

 

 



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