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摩利支天の風~若き日の北条幻庵

小田原北条家の長老と呼ばれた北条幻庵の若き日の物語です。

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4.旅の空1

4.旅の空1

 

 

 菊寿丸は山伏姿になって、父親からもらった小太刀(こだち)を差し、金剛杖(こんごうづえ)を突いて旅に出た。箱根権現で父親と別れ、愛洲太郎左衛門に連れられて沼津へと向かった。

 菊寿丸は初めて海を見た。

 話には聞いていたが、想像していたよりずっと海は大きかった。港には大きな船が浮かび、様々な人々が行き来して賑わっている。箱根権現も参詣者でいつも賑やかだったが、ここはまたちょっと違う賑やかさだった。港町全体が活気に溢れ、人々は皆、忙しそうに走り回っていた。

 『小野屋』という商人の屋敷に連れて行かれ、菊寿丸は久し振りに母親と妹に再会した。妹とは四歳の時に別れて以来だった。もう十二歳になり、やけに大人びて見えた。ニコニコしながら見つめられると妹ながら変な気持ちだった。さらに驚いたのは一緒に来ていた七重だった。七重は菊寿丸が箱根権現に入ってから、笠原新次郎と一緒になって、すでに二児の母となっていた。久し振りに会って、幼かった頃の事が思い出されて照れ臭かった。

 七重は成長した菊寿丸を見ながら、「御立派になられて‥‥」と涙を溜めていた。

 菊寿丸の前に見た事もない料理がずらりと並べられ、小野屋の女将というのが挨拶に現れた。百合と名乗った女将は三十前後の綺麗な人だった。

 菊寿丸がボーッと見とれていると隣の太郎左衛門が、「わしの娘じゃ」と言った。

 菊寿丸は太郎左衛門と百合を見比べた。どうしても二人が親子だとは信じられなかった。泣く子も黙る程、貫禄のある太郎左衛門と観音様のように美しい女将はどう考えてみても結び付かなかった。

 次の朝、菊寿丸は皆に別れを告げて、太郎左衛門と一緒に小野屋の船に乗り込み、西へと向かった。

 船に乗るのが初めての菊寿丸は見晴らしのいい矢倉の上に立って、いつまでも海を眺めていた。

「どこに行きたい」と突然、太郎左衛門の声がした。

 振り返るといつの間にか、太郎左衛門がすぐ後ろに立っていた。

「この船はどこに行くのですか」と菊寿丸は聞いた。

「伊勢じゃ。しかし、あちこちに寄って行く。行きたい所があったら連れて行ってやるぞ」

「分かりません。韮山と箱根権現しか知りませんから」

「そうか、そうじゃったのう。それじゃあ、まず、駿府(すんぷ)にでも行ってみるか」

「駿府?」

「駿河の国の府中じゃ。お前の従兄(いとこ)の今川治部大輔(じぶだゆう)がいる。聞いた事ないか」

 菊寿丸は首を振った。

「そうか。お前の親父の妹の子が治部大輔といって、駿河の国のお屋形様じゃ。一度、会っておいた方がいいかもしれんな」

 江尻津(清水港)で船を降りた二人はその日、港の近くにある小野屋に泊まり、次の日、鎌倉街道を駿府に向かった。


 今川家の城下、駿府(静岡市)は華やかな都だった。大通りには商人たちの大きな屋敷や蔵が並び、行き交う人々も韮山の城下に比べるとずっと派手だった。

 城下町を抜けると堀と土塁に囲まれた駿府屋形がある。大手門は御番衆と呼ばれる警固兵に厳重に守られていた。

 太郎左衛門は門番に書状のような物を見せた。門番は書状を読むと態度を改め、菊寿丸をチラッと見てから、お屋形の中に入れてくれた。

 お屋形の中は思ったより広かった。侍の屋敷がずらりと並び、城下町と違って行き交う人はほとんどが侍だった。

「二の曲輪(くるわ)じゃ」と太郎左衛門は言った。「武家屋敷の他に菩提寺、弓矢の稽古をする的場や馬場などがある」

 大通りを真っすぐ進むと左側に今林寺という寺院があって、それ以上は土塁でふさがれていて進めない。右に曲がると左側に大きな門が見えた。ここでも太郎左衛門は書状を見せて通過する事ができた。

 堀に架けられた橋を渡って、もう一度、門をくぐると本曲輪に出た。正面に堀に囲まれた大きな屋敷が二つ見えた。

「あれが守護所じゃ」と太郎左衛門は左側の建物を指して言った。

「あれは何ですか」と菊寿丸は右側の建物を指した。

「あれがお屋形様の屋敷じゃ。治部大輔殿が住んでおられる」

「へえ、凄いですね‥‥でも、突然、訪ねて行って会ってくれるのですか」

「分からん、行ってみなけりゃな。ただ、叔母上には会えるじゃろう」

 太郎左衛門は治部大輔の屋敷には向かわずに、その裏にある屋敷に向かった。

「ここが北川殿と呼ばれている叔母上の屋敷じゃ。多分、おられると思うがの」

 門の側まで行くと北川殿を警固している侍が馴れ馴れしく近寄って来た。

「いらっしゃいませ、愛洲殿。いかがいたしました。何か急用でも」

「いや、今日は用があって来たのではない。菊寿丸殿をお連れした。一度、お屋形様にお目にかけようと思ってのう」

「菊寿丸殿というと早雲殿の?」

「一番下の息子じゃ」

「そうでございましたか」

「おられるかな」

「北川殿はいらっしゃいます。お屋形様は今、清涼亭の方におられると思いますが」

「ほう、お客人か」

「はい。京都からお公家さんがいらしておりますので」

「相変わらず、華やかな事で」

 菊寿丸は叔母の北川殿と初対面をした。北川殿は父親の妹だというが、父と比べると随分と若いような気がした。北川殿は始終ニコニコしながら、突然の菊寿丸の訪問を歓迎した。

「兄上様にこんな可愛い男の子がいらしたのですか。兄上様が興国寺のお城にいらした時は何度か行った事があるのですけど、伊豆の方に行かれてから、まだ、一度も行ってないのですよ。兄上様は温泉に浸かりに来いって誘って下さるんですけどね」

 菊寿丸はここでも御馳走攻めにあった。豊富な海の幸も珍しかったけれど、次から次へと料理を運んで来る侍女たちの華やかさは菊寿丸には眩しすぎた。箱根権現にいた頃は女の事など全然、気にならなかったのに、お山を降りてまだ三日だというのに若い娘に心を奪われていた。

 食事の後、庭園内にある茶室でお茶の御馳走になった。お茶を点ててくれたのはお屋形様である今川治部大輔氏親(うじちか)だった。いつの間に茶室に入ったのか、菊寿丸はまったく気が付かなかった。

「大きくなったのう」と治部大輔はお茶を差し出しながら言った。「覚えておらんかもしれんが、おぬしがまだ三歳だった頃、わしは韮山に行き、おぬしと会った。元気のいい子供じゃったのう」

 治部大輔は見るからに百戦錬磨の武将という顔付きをしていた。どことなく父親に似ていると感じた。従兄弟同士なのに年齢は父子程の差があった。この人が駿河の国を治めているのだと思うと頼もしく感じられた。治部大輔は四半時(しはんとき、三十分)程、菊寿丸を相手に話をすると忙しそうにお屋形の方に帰って行った。

 北川殿はゆっくりしていって下さいと言ったが、太郎左衛門は菊寿丸を連れて屋敷を後にした。

「堅苦しい所はどうも苦手でな」と太郎左衛門は笑った。

 駿府屋形から出るとそこは別世界のように賑やかな所だった。所せましと家々が並び、町人たちが騒々しく動き回っていた。

「ここは何です」と菊寿丸は辺りをキョロキョロ見回しながら太郎左衛門に聞いた。

「浅間明神様の門前じゃ。やかましい所じゃが、わしにはこっちの方がいい」

「浅間明神様ですか‥‥」

 そう言われてみると、どこか箱根権現の門前町に似ていた。

「お前、酒は飲めるのか」と太郎左衛門は聞いた。

 菊寿丸はうなづいて、「少しなら」と答えた。

「そうか、今晩はここで遊ぶか」

「遊ぶのですか」

「お前の親父にな、上から下まで世間のすべてを見せてやれと頼まれたからのう。上は今、見て来た。今度は下を見る番じゃ」

 太郎左衛門は意味ありげにニヤニヤ笑っていた。

 

 

 


 門前町のはずれにある薄汚い木賃宿(きちんやど)に連れて行かれた菊寿丸は、職人姿に着替えさせられた。その部屋の狭さにびっくりしたが、庶民たちは皆、こんな所に住んでいると言われ、さらに驚いた。

「わしはのう、若い頃、こういう格好で旅をしたもんじゃ」と太郎左衛門は言った。「こういう格好で旅をすると、世の中がまったく別のように見えて来るんじゃよ」

「愛洲殿は職人もやっておられたのですか」と菊寿丸は不思議そうに聞いた。

「ああ、やっておった。色々な事をやったわ。その愛洲殿というのはやめてくれ」

「では、何とお呼びしたらいいのです」

「師匠と呼べ」

「はい、師匠は何の職人だったのですか」

「仏師(ぶっし)じゃ」

「仏師? あの仏様を彫る人の事ですか」

「そうじゃ。お釈迦様、観音様、阿弥陀様、不動明王、摩利支天、何でも彫る。そのうち、お前にも教えてやる」

「俺は彫り物なんてやった事ありません」

「大丈夫じゃ。お前には親父殿の血が流れている。素質は充分あるというわけじゃ」

「親父の血?」

「お前の親父殿は鞍(くら)作りの名人じゃろ。知らなかったのか」

「知りません」

「そうか、知らんのか。親父殿の作った鞍は将軍様もお使いになっておられる程、立派な鞍なんじゃ。伊勢家の鞍といってのう、京都の伊勢家に代々伝わっているんじゃ。親父殿は備中(びっちゅう、岡山県西部)の伊勢家の出じゃが、若い頃、京の伊勢家に世話になっていたらしい。その時、鞍作りを覚えたそうじゃ。今川家のお屋形様の鞍も親父殿が作ったはずじゃ」

「知りませんでした。父上が鞍を作るなんて」

「鞍作りだけじゃないぞ。親父殿は馬術、弓術、それに水泳の腕は天下逸品じゃ。自慢するようなお人じゃないがのう。お前には、それらの素質すべてが備わっている。親父殿の跡を継いでやれ」

 身軽な職人姿となった二人は盛り場に繰り出して、薄汚い小さな飲屋の暖簾(のれん)をくぐった。

 中には人相の悪い男たちが大声で怒鳴りながら酒を飲んでいた。菊寿丸は中に入るのを躊躇(ちゅうちょ)していたが、太郎左衛門はさっさと奥の方に行ってしまった。菊寿丸は慌てて後を追った。

 あちこち欠けている汚いお椀に注がれた酒は白く濁っていた。箱根権現にいた頃、こっそり隠れて飲んでいた酒とは違った。珍しい酒だと一口飲んでみたが、決して、うまいとは言えなかった。

 太郎左衛門は平気な顔で飲み干した。菊寿丸も師匠にならえと一気に飲み込んだ。

 二杯目が注がれた。太郎左衛門はいい気分になったのか昔話を始めた。

「わしがお前の親父、早雲殿に会ったのはもうずっと昔の事じゃ。応仁の乱と呼ばれる大戦(おおいくさ)が京の都で始まった頃じゃった。わしは南伊勢で生まれたんじゃが、どうしても都が見たくなってのう。友と二人で京都に向かったんじゃ。十八の頃じゃった。伊賀の国(三重県西部)に入る前、わしらは早雲殿と出会ったんじゃ。戦の最中で危険な目にも何度か会ったが、早雲殿のお陰で切り抜けて、何とか京都にたどり着けた。ところが、京都に着いた途端、早雲殿はどこかに消えてしまったんじゃ。わしらは右も左も分からない都に置いていかれたんじゃよ。あの時は本当に恐ろしかったのう‥‥京の都はほとんど焼け野原となっていた。あちこちに死体が転がっていた。足軽というならず者たちが徘徊して、真っ昼間から強盗や放火、好き勝手な事していたわ‥‥わしは恐ろしかった。こんな所、都じゃないと思った。わしは京都から逃げて、泣きながら故郷に帰ったんじゃ。この世の地獄を経験したわしは故郷に帰ってから、しばらくの間、何もできなかった。しかし、強くならなければ何もできんと悟ったわしは武芸の稽古を始めたんじゃよ。山の中で一人で稽古に励んでいたんじゃが、そこに現れたのが風摩小太郎殿じゃ。小太郎殿は当時、大峯山の山伏じゃった。わしは小太郎殿の弟子となって武芸を習ったんじゃ。わしは小太郎殿に様々な事を教わった‥‥何年かして、早雲殿とも再会した。早雲殿は幕府に仕えていたが、幕府内の権力争いに嫌気が差したんじゃろう。頭を丸めて関東へと旅立って行った。長い旅の末に駿河に落ち着いて、今川家の家督争いに巻き込まれて活躍した。その後は、今川家の武将として戦で活躍し、伊豆の国を平定した後、独立したんじゃ。今川家の家督争いの時、丁度、小太郎殿も駿河に来ていた。二人は協力して新しい国を作ろうと誓ったんじゃ。二人とも世の中の裏も表も知り尽くしている。武士の気持ちも分かるし下々の者たちの気持ちも充分に分かっている。二人は戦で苦しんでいる庶民たちを助けようと庶民たちのための新しい国を作ろうとしてるんじゃよ」

 三杯目が注がれた。太郎左衛門はうまそうに酒を飲みながら話し続けた。

「早雲殿はのう。お前を箱根権現の別当にするつもりじゃった。別当にして僧侶、山伏、商人、職人らを支配させようと考えていたんじゃ。ところが、考えを変えた。早雲殿もすでに七十の半ばじゃ。五年前に小太郎殿が亡くなり、死というものを本気で考え始めたんじゃろう。早雲殿は長男の新九郎(氏綱)殿に跡を継がせ、次男の新六郎(氏時)殿に新九郎殿の補佐をさせるつもりじゃ。三男の新三郎(氏広)殿は母上の実家である葛山(かづらやま)氏の養子となり、葛山家を継ぐ事になる。新九郎殿と新六郎殿は武士として育てられ、城の中の事しか知らん。はっきり言って世間知らずじゃ。早雲殿が生きているうちはいいが、死んでしまったら庶民たちの気持ちの分かる者がいなくなってしまう。そうなると早雲殿の考えていた国とはまったく別な国ができてしまう事に気付いたんじゃ。そこでお前を旅に出す事に決めたんじゃよ。お前は武士という身分を捨てて、庶民と共に暮らし、奴らが何を考え、何を望んでいるかを身をもって体験して行くんじゃ。早雲殿の志しを継ぐためにな」

 太郎左衛門は三杯目を飲み干すと、「分かったか。お前が伊勢家の将来をしょって立つんじゃぞ」と力強く言った。

 酔ったせいか気が大きくなって、任せておけと菊寿丸はうなづいたが、まずい酒を三杯も飲んだため、気分が悪くなりかけていた。

 太郎左衛門は店を出ると次の店へと向かった。二軒目には粗末ながらも座敷があって、二人の女が出て来て酌(しゃく)をしてくれた。顔を真っ白に塗ったおばけのような女だった。

 太郎左衛門は楽しそうに女と話しながら酒を飲んでいた。菊寿丸は吐きそうな程、気分が悪かった。早く帰りたかったが、口に出して言えなかった。それでも、太郎左衛門もおばけが気にいらなかったのか、一杯飲んだだけで引き上げたので助かった。

 菊寿丸は我慢仕切れずに道端にへどを吐いた。太郎左衛門は酒を飲むのも修行じゃと言って次の店に向かった。

 三軒目にも女がいた。しかし、前の店とはまったく違って、若くて綺麗な娘だった。店構えもずっと立派だった。

 太郎左衛門はニコニコしながら娘の酌をした酒を飲んでいた。菊寿丸も気分が悪かった事も忘れて、娘に見とれながら酒を飲んだ。酒は相変わらず濁り酒だったのに、酌をしてくれる相手によって、こうも味が変わるのかと不思議に思った。

 太郎左衛門は嬉しそうに酒を飲んでいたが、ちょっとすけべになっていた。さっき、偉そうに説教をしていた太郎左衛門が、いい年をして若い娘といちゃついているなんて信じられなかった。これも酒のせいなのだろうかと不思議に思った。

「菊寿丸様、その節はどうも」と山吹という名の娘が突然、頭を下げた。

「なんじゃ?」と太郎左衛門は驚いた。

 菊寿丸も驚いて山吹の顔を見つめた。どこかで会ったような気がしたが分からなかった。

「箱根の権現様にいた時、菊寿丸様に助けていただきました」と山吹は言った。

 菊寿丸は思い出した。稚児に化けていた娘の一人で、あの時、菊寿丸をじっと見つめていた娘だった。

「ああ、あの時の‥‥でも、どうして、こんな所に」

「あたしは親に売られて箱根のお坊様のもとに行きました。でも、毎日が辛くて辛くて‥‥菊寿丸様に助けていただいて本当に嬉しかったんです。あたしは喜んでうちに帰りました。でも、怒られました。あたしがうちにいるとお坊様が何を言ってくるか分からない。早く、箱根に帰れと言われました。あたしが菊寿丸様の事を話すと、両親も箱根に戻す事は諦めましたが、それでも、うちには置いておけないと、知らない男の人にあたしを預けたんです。その人に連れられて、ここに来ました」

「二度も売られたんじゃな」と太郎左衛門は言った。

「親が子供を売る?」菊寿丸には山吹の言っている事が信じられなかった。

「お前には分からんじゃろうがのう、このところの飢饉続きで、人々は食う事もやっとなんじゃ。生きて行くためには自分の子供でさえ売らなければならんのじゃよ」

「あたし、菊寿丸様にお礼が言いたかったんです。あたし、浅間の明神様に毎日、お願いしてたんです。いつか、菊寿丸様にお会いできますようにって、あたしのお願い、聞いて下さったんだわ。あたし、本当に嬉しい」

「お前も隅に置けんのう。わしらは隣の部屋に移るからな。じっくりと二人で楽しめ」

「あの、帰らないのですか」

「何を言ってるんじゃ。女子(おなご)の気持ちが分からん奴は生きてる価値などないわ」

 太郎左衛門はニヤニヤしながら松風という名の娘の手を引いて、隣の部屋へと消えて行った。

「誰?」と山吹が聞いた。

「師匠だ」

「何の?」

「えーと、彫り物の師匠だ」

「へえ、面白いお人ね」

「うん、面白い人かもしれない」

 菊寿丸は山吹と二人だけになったが、どうしたらいいのか分からなかった。今まで、同じ年頃の娘と二人きりでいた事などなかった。それでも酒のお陰か、菊寿丸は箱根権現での事など山吹に話してきかせた。

 山吹は菊寿丸をじっと見つめながら話を聞いていた。その目付きはあの時、菊寿丸を見つめていた目付きと同じだった。あの時、菊寿丸はその目付きに何かを感じた。しかし、当時の彼女は稚児の格好をしていたので、すぐに忘れてしまった。ところが今の彼女は綺麗な着物を着ていて、紛れもなく美しい女だった。

 その晩、菊寿丸は山吹の酌する酒を飲み過ぎて酔い潰れてしまった。

 次の日、太郎左衛門は帰るとは言わなかった。一日中、何もしないでゴロゴロしていた。菊寿丸は今まで、何もしないで一日を過ごした事などなかったが、太郎左衛門は何もしないでいるのも修行だと言って、昼間から酒を飲みながら松風といちゃついていた。菊寿丸も山吹と別れたくなかったので、その日、一日、山吹と一緒に過ごした。

 日が暮れる頃、太郎左衛門は松風と一緒に菊寿丸の部屋にやって来て、また、酒盛りが始まった。その晩、山吹は菊寿丸にあまり酌をしなかった。その代わり、太郎左衛門を酔い潰してしまえとしきりに酌をしていた。

 太郎左衛門は若い頃の父親の事を面白おかしく話してくれた。若い頃の父親を知らない菊寿丸にとって、その話は面白かった。昔の事を知った事によって、父親が今まで以上に身近に感じられた。さすがに太郎左衛門も飲み過ぎたのか、昨夜よりも早く引き上げて行った。

 菊寿丸はその晩、山吹を抱いた。女の体の不思議さを知った菊寿丸は山吹の体に夢中になってのめり込んで行った。

 次の日も太郎左衛門は帰るとは言わなかった。菊寿丸も帰りたくなかった。菊寿丸は一日中、山吹と二人だけの楽しい時を過ごしていた。菊寿丸の言う事を真剣な眼差しで聞いて、たわいもない事を言っても喜ぶ山吹と一緒にいるのは楽しかった。このまま、ずっと二人だけでいたいと思った。

 その日も日暮れ近くになると太郎左衛門と松風はやって来た。

「久し振りにのんびりしたわ。明日はいよいよ旅に出るぞ。今晩は充分に別れを惜しんでおけ」と太郎左衛門は松風の腰を抱きながら言った。

「明日、ここを出るのですか」と菊寿丸は驚いて聞いた。

 太郎左衛門はうなづいた。「辛い旅になるぞ。覚悟して置け」

「山吹はどうなるんです」

「どうもこうもない。山吹はここで働くじゃろ。松風と一緒にのう」

 太郎左衛門は松風のふところに手を差し入れて胸を揉み始めた。

「いやだ、山吹も連れて行く」と菊寿丸は言った。

「馬鹿な事を言うな。お前はまだ半人前じゃ。そういう事は一人前になってから言え」

「俺は一人前だ」

「いや、半人前じゃ。お前はまだ世の中の事など何も知らん。銭を稼ぐ事さえ知らん。生きて行くというのは大変な事なんじゃ」

「山吹をこんな所に置いては行けない」

「いいんです、菊寿丸様」と山吹は言った。「あたしはここにいます。菊寿丸様に会えただけで充分、幸せです。どうぞ、旅に出て下さい。そして、立派なお人になって下さい」

「菊寿丸、どうしても山吹をここから出したかったら、旅を終えた後、迎えに来てやれ」

 菊寿丸はぶすっとした顔で黙り込んでいた。

「菊寿丸様、あたし、お待ちしております」と山吹は菊寿丸を見つめて言った。

「山吹のためにもしっかりと修行して、早く一人前になる事じゃ‥‥さて、別れの酒盃(さかずき)じゃ。今晩は心置きなく飲もう」

 最後の晩、菊寿丸は眠る間も惜しんで山吹を抱き続けた。

 

 

 


 山吹と別れた菊寿丸はしょんぼりとして太郎左衛門の後を追っていた。二人とも職人姿のままだった。

 阿部川と藁科(わらしな)川を舟で渡り、歓昌院坂を越えると鞠子の城下に出た。今川家の重臣、斎藤加賀守(かがのかみ)の城下だという。太郎左衛門は菊寿丸を城下のはずれにある屋敷に連れて行った。

「どなたのお屋敷なのですか」と菊寿丸は興味なさそうに聞いた。

「連歌師(れんがし)の宗長(そうちょう)殿じゃ。京の都でも有名なお方じゃ。会っておいて損のないお人じゃ」

 竹林を抜けて、柴屋軒(さいおくけん)と書かれた門をくぐると広い庭園になっていた。

「おう、太郎坊か、久し振りじゃのう。いや、この間、会ったか」と宗長は二人を迎えた。

 庭に梅の木を植えていたところで作務衣(さむえ)姿の宗長は泥だらけだった。

「庭作りですか」と太郎左衛門は聞いた。

「いい植木が手に入ったんでのう」

「成程、なかなかの枝ぶりですね」

「うむ」と宗長は梅の木を眺めながら満足そうにうなづき、振り返ると、「どうしたんじゃ。随分と暇そうじゃのう」と聞いた。

「今日は顔見せに寄ったのです」と太郎左衛門は言った。

「顔見せ?」

 太郎左衛門は菊寿丸を宗長に紹介した。

「ほう。早雲殿の伜か‥‥」

「この先、お世話になると思いましてね」

「うむ、職人姿が様になっている。なかなか頼もしいのう」

「これから旅をして鍛えようと思ってます」

「成程、早雲殿はおぬしを選んだか。この上もない師匠じゃ。それで、これからどこに行くんじゃ」

「まず、甲賀(こうか)に行こうかと」

「飯道山(はんどうさん)か」

「ええ、本場の武術というものを見せておこうと思っています」

「うむ、そうじゃな。まあ、お茶でも一杯、飲んで行け」

 宗長は僧衣に着替えて来ると二人を茶室に案内した。茶室の入り口の上に『狂客庵(きょうかくあん)』と書かれた額が飾ってあった。

「洒落てますな」と太郎左衛門は笑った。

「師匠が師匠じゃからな」と宗長も笑った。

「成程」と太郎左衛門は納得した。

 床の間には、宗長の師であった一休禅師の力強い墨蹟(ぼくせき)が飾ってあった。

 湯を沸かしながら宗長は、「この間の善法(ぜんぽう)殿の三回忌のお茶会の時、久し振りに早雲殿に会ったが、相変わらず達者なお方じゃのう」と言った。

「はい、驚く程、達者です。とても七十六とは思えません」と太郎左衛門は答えた。

「なに、もう七十六におなりか‥‥そうじゃのう。わしでさえ、もう六十じゃからのう」

 宗長は菊寿丸に視線を移すと、「菊寿丸殿」と呼んだ。

 ぼんやりと庭を眺めていた菊寿丸は宗長を見た。

「そなたの父上はわしの恩人じゃ」と宗長は言った。「わしが武士のままでいるか、連歌師になるか迷っていた時、早雲殿が連歌師になれと言って、宗祇(そうぎ)殿と一休禅師を紹介してくれたんじゃよ。当時、宗祇殿は古典の研究に没頭しておられて弟子を取らなかった。わしは一休禅師を訪ねて弟子となった。宗祇殿も禅僧じゃったんでな、連歌の修行をする前に禅の修行をしようと思ったんじゃ。一休禅師のもとでの修行は厳しかったが、その後のわしの生き方を変えたと言ってもいい程、貴重な経験じゃった。その後、宗祇殿の弟子となり連歌師となったが、禅は大いに役に立った。今のわしがいるのは早雲殿のお陰じゃ」

「そんな事があったのですか、知りませんでした」と太郎左衛門は言った。

「もし、早雲殿が駿河に来なかったら、わしは一武将で終わっていたじゃろう。連歌師になったお陰で、わしは様々な人と出会う事ができた。一癖も二癖もある変わった人々とな。太郎坊、おぬしもその一人じゃな」

「わしはそれ程でもないでしょ」

「いや、変わっている」

「変わってるといえば夢庵(むあん)殿ですよ」

「夢庵殿か‥‥」と宗長は懐かしそうに言った。「確かに、あの御仁(ごじん)は変わっている。初めて会った時はたまげたわ。こんな男が世の中にいたのかと信じられなかった。今頃、どこで何をやってるんじゃろうのう」

「とぼけたお人ですからね。何をやってる事やら」

「夢庵殿という人も連歌師なのですか」と菊寿丸は宗長に聞いた。

「そうじゃよ。わしの兄弟子じゃ」

 お湯が沸いた。宗長は慣れた手捌きでお茶を点て始めた。

「夢庵殿は茶の湯の師匠でもあるんじゃよ」と宗長は言った。「わしは夢庵殿から茶の湯を習ったんじゃ。まったく不思議なお人じゃ。ちゃらんぽらんなくせに、茶の湯の腕も和歌も連歌も一流じゃ」

「武芸も一流ですよ」と太郎左衛門は言った。

「うむ。飯道山の師範もやったそうじゃな」

「ええ。頼まれたわけでもないのに、暇潰しじゃと言って勝手に修行者たちに教えていました。何をやっても遊んでるみたいで憎めないお人です」

 菊寿丸は不思議そうに二人の話を聞いていた。連歌師というのは菊寿丸も知っていた。箱根権現でも時々、僧侶たちが集まって連歌会をする事があった。その時、僧侶たちの口から宗祇と宗長の名は聞いた事があった。その宗長を目の前に見て、これが連歌師というものかと菊寿丸は思ったが、宗長は禅僧のようでもあった。その宗長が連歌師になれたのは父親のお陰だという。菊寿丸の知らなかった父親の姿をまた知る事ができたのは嬉しかった。

 

 

 


 連歌師宗長は一緒について来た。

 久し振りに夢庵殿に会いたくなったと言って、旅支度をするわけでもなく、そのままの格好で気楽について来た。

「駿河を留守にしても構わないのですか」と太郎左衛門が聞くと、「いいんじゃ。わしはもう用なしじゃ」と顔を少しゆがめた。

「どういう意味です」

「二年前、お屋形様は京都から奥方様をお迎えになられた。お公家さんの娘じゃ。奥方にくっついて大勢のお公家さんが京都からやって来てのう。わしの出る幕はなしじゃ」

「成程、そうだったのですか」

「まあ、お屋形様ももう一人前じゃからのう」

 三人となった一行はのんびりと旅を続けた。

 その日は、島田にある宗長の実家に泊まった。宗長の実家は刀鍛冶だった。両親はすでに亡く、兄が家を継いで、大勢の職人を抱えて刀や槍を作っていた。菊寿丸にとって何もかもが珍しかった。菊寿丸は飽きる事なく、じっと刀作りを眺めていた。

 大井川を渡って遠江(とおとうみ)の国(静岡県西部)に入り、三河の国(愛知県東部)を抜け、尾張の国(愛知県西部)を北上して、美濃(みの)の国(岐阜県南部)に入った。美濃の国、竹ケ鼻城(羽島市)には太郎左衛門の弟子がいるという。

「変わった奴じゃ」と太郎左衛門は言った。「西村勘九郎といってのう。生まれは京都の近くなんじゃが、幼い頃より日蓮宗の妙覚寺に入れられた。二十二、三の頃、大暴れして寺を追い出され、行く当てもなくフラフラしていた時、わしと出会ったんじゃ。奴はわしの弟子となって一年半、一緒に旅をした。わしと別れた後、奴は油商人の娘に惚れ込んでな、その油屋に婿入りしたんじゃ。商売が向いていたんじゃろうのう。山崎屋と号して成功し、大勢の者を使う程の商人となったんじゃよ。ところが、早雲殿が伊豆の国を乗っ取ったとの噂を耳にすると、突然、商人をやめてしまい、妙覚寺時代の仲間を頼って美濃に行って武士になってしまったんじゃ。武士になってからも戦で活躍しての、今では竹ケ鼻城の城代(じょうだい)にまで出世したんじゃよ」

「どうして、父上が伊豆の国を乗っ取ったら商人をやめたんです」と菊寿丸は聞いた。

「勘九郎が早雲殿と出会った時、早雲殿は京都にいて幕府に仕えていたんじゃ。しかし、やがては関東に戻って、新しい国を作ろうと考えていたんじゃな。勘九郎もその話を早雲殿から聞いて、自分もそんな事をしたいと思ったんじゃよ。しかし、実際問題として、そんな事はできるわけないと諦めたんじゃろう。ところが、早雲殿は実際に伊豆の国の主となってしまった。勘九郎は自分もやらなければならんと商人をやめてしまったんじゃ」

「ほう、面白い奴じゃのう」と宗長は笑った。

 竹ケ鼻城は美濃の守護、土岐(とき)左京大夫政房の重臣である斎藤豊前守(ぶぜんのかみ)利隆の居城(きょじょう)であった。豊前守は守護所である革手城にいる事が多く、竹ケ鼻城の留守を預かっているのが西村勘九郎だった。

 勘九郎は太郎左衛門の顔を見ると大喜びして迎えた。さらに、菊寿丸を紹介すると驚き、慌てて城内の客殿に案内した。

「早雲殿の御曹司(おんぞうし)ですか。ようこそ、遠い所を。光栄ですな。私は早雲殿の事を神様のように思っておりましてな。早雲殿のように一国の主(あるじ)になろうと美濃までやって来ましたが、思うようには行きませんな」

「勘九郎よ、そんな事を言ってもいいのか。人に聞かれたら首が飛ぶぞ」と太郎左衛門が笑った。

「ここだけの話ですよ。ところで、菊寿丸殿はおいくつですか」

「十五になりました」と菊寿丸は答えた。

「ほう、わしの伜より一つ上ですな」

「そう言えば、菊寿丸と同じ位の伜がおったのう。寅峰丸(とらみねまる)とか言ったな」

「はい。来年になったら元服(げんぶく)させて、早雲殿の名前をいただき新九郎と名付けるつもりでおります」

「ほう、余程、早雲殿に惚れ込んでいるようじゃのう」と庭を眺めていた宗長が言った。

「はい、それはもう」

「どうじゃ。その伜殿を旅に出さんか」

「寅峰丸をですか」

「そうじゃ。菊寿丸殿の話し相手に丁度いい。なあ、太郎坊」

「そうですね」と太郎左衛門はうなづいた。「同じ年頃の者が一緒の方がお互いに励みになるかも知れませんね」

「寅峰丸が菊寿丸殿のお相手ですか。光栄な限りですが‥‥」

「早雲殿は伊勢家の将来の事を考えて、菊寿丸殿を旅に出す事にしたんじゃ。おぬしも伜殿に世間を見せた方がいいぞ」

「はい‥‥」

「太郎坊が一緒じゃ。伜殿のためにもいい経験になると思うがのう」

「そうですね‥‥伜にも武芸は教えておりますが、やはり、師匠にお願いした方がいいですね。こんな機会は二度とないでしょう。師匠、伜の事をお願いいたします」

「うむ、引き受けた」

「菊寿丸殿、伜の事、頼みます」と勘九郎が菊寿丸に頭を下げた。

 菊寿丸は太郎左衛門を見てから、うなづいた。。

「ところで、宗長殿、これから革手城の方へ行かれるのですか」と勘九郎は聞いた。

「いや」と宗長は首を振った。「今回の旅は菊寿丸殿のただの連れじゃ。向こうには内緒にしてくれ」

「そうでしたか‥‥」

「顔を出すと長居しなければならなくなるからのう。たまには連歌なしの旅を楽しもうと思っているんじゃ」

「伊豆守(斎藤利綱)殿が残念がる事でしょう」

「伊豆守殿には絶対に内緒じゃ」

「かしこまりました。そうなると、いつまでもここにいない方がよさそうですね。私の屋敷の方に御案内いたしましょう」

 寅峰丸は屋敷にいなかった。勘九郎は家臣に寅峰丸を捜すように命じた。

「どうせ、また、長良川で遊んでるんじゃろう。困ったもんじゃ」

 家臣に連れられて戻って来た寅峰丸は真っ黒に日焼けして泥だらけだった。まさにガキ大将といった感じだった。

「ほう、これがそなたの伜殿か」と宗長は笑った。

「お恥ずかしい事で。こら、早く、着替えて来い」

「これは丁度いい。菊寿丸の相手に丁度いいわ」と太郎左衛門は手を打った。

「あんな奴を御一緒させてよろしいんでしょうか」

「面白い。菊寿丸は箱根権現の稚児だったんじゃが、稚児たちを率いて喧嘩ばかりしておった。ああいう奴でなけりゃ菊寿丸の相手はつとまらんじゃろう」

 その日の晩、寅峰丸を送り出す送別の宴が開かれ、菊寿丸は久し振りの御馳走に喜んだ。

 浅間明神の遊女屋で、父親から預かっていた銭をほとんど使ってしまい、駿河の国を出て以来、ろくな物を食べていなかった。宗長も旅に出るというのに、ろくに銭も持っていない。太郎左衛門にしろ宗長にしろ、無一文になっても、まったく平気な顔をして旅を続けている。もしかしたら、旅の途中で野垂れ死にしてしまうのではないかと菊寿丸は一人で心配していた。

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