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摩利支天の風~若き日の北条幻庵

小田原北条家の長老と呼ばれた北条幻庵の若き日の物語です。

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6.風摩砦

6.風摩砦

 

 

 正月を久し振りに家族のもとで、のんびりと過ごした菊寿丸は十四日になると太郎左衛門と一緒に箱根に向かった。

 箱根権現の別当になるために海実僧正のもとに行くのかと思ったら、挨拶に寄っただけだった。久し振りに会う海実僧正はやけにやつれて、急に老けたようだった。

 菊寿丸の顔を見ると驚いて、「おお、無事じゃったか‥‥」とつぶやいた。

「もうしばらく、菊寿丸をお貸し下さい」と太郎左衛門は言った。

 僧正はうなづくと菊寿丸をじっと見つめ、「わしは待っている」と力のない声で言った。

 僧正と別れた後、菊寿丸は太郎左衛門に、「僧正様は弟の法妙坊が死んだ事を知っているのですか」と聞いた。

「さあのう」と太郎左衛門は首をかしげた。「法妙坊が率いて行った山伏は一人も戻って来ないはずじゃ。うすうすは気づいているかもしれんがのう」

「僧正様も俺の命を狙っているのですか」

「いや。時の流れを自覚したようじゃな」

「時の流れですか‥‥」

「時の流れには誰も逆らえんのじゃ」

 菊寿丸はうなづいてから、「ところで、これからどこに行くんです」と聞いた。

「いい所じゃ」と太郎左衛門は笑った。「今晩はここに泊まる。しばらくの間、酒も女子もお預けじゃ。今晩は存分に楽しむ事じゃな」

 その晩、箱根権現の門前町で遊んだ菊寿丸は、駿河の浅間明神の門前町にいる遊女、山吹の事を思い出した。あの時、山吹を迎えに行くと約束したのに、すっかり忘れていた。約束したからには迎えに行かなければと思ったが、今の菊寿丸にはまだ、山吹を助けるだけの力はなかった。もう少し待っていてくれと山吹の事を思いながらも別の娘を抱いていた。

 太郎左衛門に連れて行かれた所は明神ケ岳の山中にある風摩砦と呼ばれている武術道場だった。

「ここは風摩小太郎殿の砦なのですか」と菊寿丸が聞くと太郎左衛門はうなづいた。

「小太郎殿が飯道山のような武術道場を作りたいと始めたんじゃよ。ただ、ここは飯道山と違って誰もが入れるわけじゃない。選ばれた者だけが入れるんじゃ」

「選ばれた者?」

「ああ。素質のある者じゃ」

「誰が選ぶのです」

「小太郎殿の配下の者たちじゃ」

「俺も選ばれたのですか」

「そうじゃ。お前だけじゃない。お前の三人の兄貴たちは皆、選ばれて、ここで修行を積んだんじゃ」

「兄上たちも」

「そうじゃ。この砦ができて、もう十年以上経つ。ここで修行した者は多い。戦で何人もが活躍している。初めの頃、ここを知っているのは伊勢家の重臣だけじゃった。しかし、今は誰もが風摩砦の事を知っている。ここで修行を積んだというだけで一目(いちもく)おかれるようになった。重臣たちは当然、自分の子供をここで修行させたいと願っている。しかし、いくら重臣の伜だとしても、選ばれなかった者はここで修行する事はできんのじゃよ」

「ここで一年間、修行するのですか」

「ああ、一年間じゃ。しかし、お前の一番上の兄貴、新九郎殿がここで二年間、修行を積んだので、新九郎殿にならって二年間、修行する者も多くなって来た」

「兄上が二年間も‥‥」

「ああ、新九郎殿も新六郎殿もな」

「俺も二年間、やる」と菊寿丸は力強く答えた。兄たちには負けられなかった。


 太郎左衛門はうなづいてから、「問題が一つある」と言った。

「ここで修行する若者は武士の伜だけじゃない。色々な奴がいる。商人や職人の伜、漁師の伜、轆轤師(ろくろし)の伜など様々じゃ。砦では一切身分など関係なく修行に励むが、伊勢菊寿丸の名で、ここに入るわけにはいかん。お前がお屋形様の伜だと分かれば、本当の修行はできんじゃろう」

「どうしてです」

「ここで修行する者たちは皆、将来、伊勢家に仕える事となる。お前がお屋形様の伜だと分かると、将来の事を考えて、お前に媚(こび)を売って近づいて来る者もいるじゃろう。また、お前と試合をやって、わざと負ける奴がいるかもしれん。お前としても、ここで修行するのに伊勢家の名は必要ないはずじゃ」

「ええ‥‥どんな名前で入るんですか」

「荏原(えばら)三郎がここでのお前の名前じゃ」

「荏原三郎? どうして荏原三郎なのです」

「荏原はお前の親父が生まれた所じゃ。備中の国、荏原庄」

「三郎は?」

「昔、源義経(みなもとのよしつね)の四天王の一人に伊勢三郎義盛という男がいた。伊勢三郎は忍びの術の名人だったそうじゃ」

「伊勢三郎義盛‥‥」

「そうじゃ。それに、お前のすぐ上の兄貴が葛(かづら)山(やま)家に養子に行ってしまった今、お前は伊勢家の三男という事になる。三郎を名乗って当然という事じゃ」

「伊勢三郎、いや、荏原三郎を名乗るんですね」

「この砦にいるうちはな。言っておくが、この砦内でお前の正体を知っている者はいない。師範でさえ知らん。一人の修行者として頑張る事じゃ」

 荏原三郎を名乗った菊寿丸は白虎軒(びゃっこけん)という修行者の長屋に入れられた。

 修行者の長屋は三軒あり、白虎軒は皆、一年めの修行者、青龍軒(せいりゅうけん)には二年めの修行者と一年めの修行者が一緒に入った。そして、鵠鶴軒(こうかくけん)は女の修行者の長屋になっていた。武術の道場に女の修行者がいるというのは驚きだった。しかも皆、美人ときている。彼女らを見て、菊寿丸は彼女らが、まさしく選ばれた者たちだと納得をした。

 今年、砦に入って来たのは男が四十二人で、女は二十人いた。その中に箱根権現で共に稚児(ちご)だった鶴若丸がいたのは嬉しい事だった。箱根権現の時のように楽しくなりそうだと菊寿丸は思った。

 鶴若丸は元服して間宮(まみや)彦次郎と名乗っていた。彦次郎は菊寿丸を見て喜んだが、急に我に返ったかのように、よそよそしくなった。

 菊寿丸がお屋形様の伜だから稚児時代のようには付き合えないという。菊寿丸は馬鹿な事を言うなと言ったが、彦次郎の態度は変わらなかった。しかし、武術師範が挨拶の時、この砦内では身分など一切通用しない。ただ、強いか弱いかだけだと言ったため、彦次郎も以前のように菊寿丸と付き合うようになって行った。

 この砦で教えている武術は剣術、棒術、槍術、薙刀(なぎなた)術、弓術、馬術だった。しかし、武術の稽古は午後からで、午前中は作業をしなければならなかった。作業は鍛冶(かじ)、彫物(ほりもの)、轆轤細工(ろくろざいく)、矢細工、鞍(くら)作り、炭焼き、焼物、薬草作りに分かれていた。菊寿丸は武術は棒術、作業は鞍作りを選んだ。

 飯道山と同じように山歩きから修行が始まった。箱根外輪山一周、およそ十二里(約五十キロ)を一日で歩けなければ、この砦では一人前に扱ってもらえなかった。

 飯道山で百日行を経験した菊寿丸は山歩きを得意としていたが、日の出と共に出発して、日の暮れるまでに戻って来る事はできなかった。最初の一ケ月間は毎日、雪の残っている山道を歩かせられた。

 

 

 


 山歩きが終わり、ようやく武術修行が始まった。

 菊寿丸は午前中は鞍作りを習い、午後になると道場に行って棒術を習った。太郎左衛門より直々に習っていたため、菊寿丸の棒術の腕は自分が思っていたよりもずっと強かった。同期の者で菊寿丸にかなう者はなく、二年目の修行者でも菊寿丸に敗れる者もいた。しかし、師範の小川弥六郎にはとてもかなわなかった。完全に子供扱いだった。菊寿丸は師範の弥六郎を倒す事を目標に稽古に励んだ。

 鵠鶴軒には二十人の美女がいた。皆、菊寿丸と同い年だった。娘たちは皆、男たちと同じ筒袖(つつそで)に膝下までのくくり袴(ばかま)を身に着けていた。違うのは色で男は浅葱(あさぎ)色で女は朽ち葉色だった。娘たちは毎日、その稽古着を着て、汗にまみれて小太刀(こだち)や薙刀の稽古に励んでいた。身なりは質素だったが、それが余計に彼女たちの美しさを引き立て、男たちの欲望をそそった。

 鵠鶴軒は砦の北の方にあり、男たちの長屋は南の端にあった。途中には師範たちの屋敷があって、用もないのに鵠鶴軒に行く事ははばかられた。娘たちは午前中、琴や笛、踊りや歌の稽古、あるいは機(はた)織りや針仕事をして、午後は武術の稽古をしたが、道場は男とは別だった。男の修行者が彼女たちと話を交わす事ができるのは食事の時だけだった。

 菊寿丸は彼女たちに人気があった。

 男たちが娘たちの動向を気にしていたように、娘たちも男たちの行動を見守っていた。暇さえあれば男たちは娘たちの噂をし、娘たちは男たちの噂をしていた。狭い砦内の事で噂の広まるのは速かった。二十人の娘たちの名前すべてが、男たちに知れわたるのに一月はかからなかった。娘たちは一月で、男たちすべての名を知ったわけではなかったが、三郎という菊寿丸の名は娘たちの間にもっとも早く知れ渡って行った。山歩きが一番速かったからだった。山歩きが終わった後も、菊寿丸が棒術が強いという噂はすぐに広まった。

 菊寿丸はいつも間宮彦次郎、愛洲小四郎、山中彦五郎、奥山助三郎、安田半次郎の五人と一緒に食堂(じきどう)で娘たちと話をするのを楽しみとしていた。

 山中彦五郎、奥山助三郎、安田半次郎の三人は白虎軒で同室だった。

 山中彦五郎とは幼なじみで、彦五郎が丑若丸(うしわかまる)と名乗っていた頃、一緒に遊んだ仲だったが、菊寿丸が七歳で箱根権現に入ってしまったため、十年振りの再会だった。彦五郎は剣術組に入って、轆轤細工の作業をしていた。

 奥山助三郎は轆轤師の伜で、背は低いが怪力の持主だった。去年の暮れ、突然、見知らぬ山伏が現れ、ここに連れて来られたという。助三郎は剣術と彫物の作業を選んだ。

 安田半次郎は箱根権現に所属する紙を扱う商人の伜だった。商人の伜だったが、山伏になるために箱根権現で修行していたら、やはり、見知らぬ山伏にここに連れて来られたという。半次郎は棒術組に入り、焼物の作業をしていた。

 彦次郎は伊勢家の家臣、間宮豊前守(ぶぜんのかみ)の次男で、僧侶になるために箱根権現の稚児となったが、兄が戦死したので武士に戻っていた。彦次郎は剣術と彫物を選んでいた。

 愛洲小四郎は愛洲太郎左衛門の甥で、伊勢からやって来た水軍の大将の伜だった。小四郎は菊寿丸と同じ棒術組に入り、矢細工の作業をしていた。

 山中彦五郎と間宮彦次郎の二人だけが菊寿丸の正体を知っていた。菊寿丸は二人に正体をばらす事を禁止した。二人も承知してくれた。正体をばらしたら、娘たちがみんな、お前のものになってしまう。そんな事は絶対にしないと言った。

 菊寿丸はその五人と一緒に、いつも食堂の一画を陣取って、娘たちの物色をしていたが、菊寿丸に近づいて来る娘の中に、菊寿丸の気に入った娘はいなかった。菊寿丸の気に入っている、おかよという娘は菊寿丸には興味がないのか、近寄っては来なかった。

 ある日、おかよが垪和(はが)又次郎という奴と楽しそうに話しているのを彦五郎が見たという。垪和又次郎は剣術の修行をしている奴で、多少、腕が立つとの噂は菊寿丸も聞いていた。棒術と剣術は道場が違うため、菊寿丸には又次郎の腕がどの位か分からなかったが、大した事はあるまいと高をくくっていた。

 菊寿丸は次の日から剣術組に移った。この砦ではどんな武術でも平均的に身に付ける事を重視しているため、棒術をある程度、身に付けている菊寿丸は剣術組に移る事を許された。師範は剣術の腕も棒術くらいにならないと他の組には移さんぞと言ったが、菊寿丸は剣術の腕にも自信を持っていた。

 箱根権現にいた時、風雷坊から習ったのは剣術で、菊寿丸はもともと剣術が好きだった。棒術を始めたのは、師匠の太郎左衛門が刀など持たず、常に持っている杖で、いとも簡単に何人もの敵を倒すのを目にしてからだった。ただの杖が、刀にも槍にも薙刀にもなるという不思議さにひかれたからだった。棒術の修行もまだまだ積まなければならないと思ったが、それよりも先に、垪和又次郎の奴を何としても倒さなければならなかった。

 剣術組にいた彦次郎、彦五郎、助三郎は驚いた。菊寿丸はすぐに又次郎はどいつだと聞いた。三人に教えてもらった又次郎は菊寿丸が想像していた男とは大分、違っていた。

「ほんとに奴か」と菊寿丸は確認した。

「奴だ」と彦次郎はうなづいた。

 又次郎はずんぐりむっくりとした男で、顔付きも冴えなかった。

「本当に、奴がおかよちゃんと一緒にいたのか」

「ほんとうさ」と彦五郎は言った。

「よし」と菊寿丸は又次郎に近づき、名を名乗って試合を申し込んだ。又次郎は菊寿丸をじっと見つめてから、うなづいた。

 二人は木剣を構えた。修行者たちが輪になって二人を囲んだ。

 菊寿丸と又次郎は相手の構えを見つめたまま、なかなか動かなかった。

 菊寿丸には又次郎の構えだけで、又次郎の強さは充分に分かった。勝つ事はできるかもしれない。しかし、又次郎が大怪我をする可能性が高かった。手加減をして勝てる相手ではない。必死にならなければ勝てない。必死になれば、木剣が相手に当たる寸前に止める事などできなかった。菊寿丸は又次郎にかかって行けなかった。

 師の太郎左衛門は武術というものは、敵を傷つけるために修行するのではない。敵を傷つけないように、敵より強くなるために修行を積むのだと言っていた。菊寿丸はたかが、女子(おなご)の事で又次郎を傷つけたくはなかった。

「やめろ!」と誰かが怒鳴っていた。

 菊寿丸はホッとした。

 師範がやって来て、二人の間に入って来た。二人は木剣を下げた。

「勝手な真似は許さん。お前は三郎じゃな。この組に入って来たばかりで試合をするとは何事か。又次郎、お前もどうしたんじゃ。お前らしくないぞ」

 菊寿丸と又次郎は罰として、鉄の棒の素振りをさせられた。二人は日が暮れるまで、鉄の棒を振り続け、ついに倒れてしまった。

「三郎、お前の噂は知っている」と又次郎は倒れたまま言った。

「どんな噂だ」と菊寿丸も夜空を見上げながら言った。

「色々な噂だ」

「俺はお前の事を知らなかった」と菊寿丸は言った。

「俺はお前のように目立たんからな‥‥今日の俺はどうかしていた。俺は今まで目立った事などした事はなかった。お前から試合を申し込まれた時、俺は断ろうと思った。師範に怒られるからやめようと言おうと思った。でも、お前の目に見つめられたら、今、ここでやらなければ、俺は男じゃなくなると思えて来たんだ‥‥なぜだか分からん。俺はいつも、先の事まで考えてから行動に移す。考えてからじゃなけりゃ行動に移せないんだ。でも、あの時は先の事なんか一切、考えなかった。今の事しか考えなかった‥‥初めてだ、こんな事をしたのは」

「変わった奴だな」

「俺は全然、変わっていない。でも、どうして、俺に試合を申し込んだんだ」

「女子だよ」

「女子?」

「ああ。おかよという娘だ。お前は親しそうに話していたそうじゃないか」

「おかよちゃんの事か‥‥」

 菊寿丸は体を起こすと又次郎を見た。又次郎は腕枕をして空を見上げていた。

「おかよちゃんとはいい仲なのか」と菊寿丸は聞いた。

「そんなんじゃない。ただの幼なじみだ」

「なんだ、幼なじみか。それだけか」

「それだけさ‥‥おかよちゃんがここにいたなんて、全然、知らなかった‥‥」

 菊寿丸は安心して、また横になった。

「知らなかった? 幼なじみだろ」

「おかよちゃんの父親は八年前に戦死したんだ。おかよちゃんはお母さんに連れられて、田舎に帰って行った。その後、どうなったのか全然、知らなかった」

「ここで再会したのか」

「ああ、俺には分からなかったが、昨日、おかよちゃんの方から声をかけられて思い出したんだ」

「それで、昨日、話し込んでいたのか」

「田舎に帰って、何年か経って、今度は母親も亡くなったらしい。おかよちゃんは親戚に引き取られたけど邪魔物扱いされて、いじめられたらしい。おかよちゃんは一人で田舎から出て来た。韮山の城下に行けば何とかなると考えていたらしいけど考えが甘かった。詳しい事は知らないが、あの器量だ、男どもが黙っているわけがない。随分と辛い目にあったらしい‥‥ある所で奉公していた時、見知らぬ尼僧がやって来て、身請けしてくれ、ここに連れて来られたそうだ」

「そうだったのか‥‥」

「俺なんかと違って、おかよちゃんは苦労し過ぎる」

「そうだな‥‥」

 菊寿丸と又次郎の二人は、いつまでも星を見上げていた。

 

 

 


 剣術組に移った菊寿丸は垪和又次郎をよき競争相手として修行に励んだ。二人の腕はいつまで経っても互角だったが、同期の者たちではとても歯が立たない程に強くなって行った。

 おかよとの仲も又次郎の紹介によって、うまく行っていた。しかし、うまく行っていたと言っても食堂で会って話をするだけだった。

 砦内で男女が私語を交わす事は禁じられてはいたが、お互い若い者同士なので、そんな事を言っても無理で、食堂内だけは黙認されていた。中には夜中にこっそり会って、しっぽり濡れている男女もいた。ここに砦ができてから、すでに十年以上も経ち、逢い引きに適したいくつかの場所が修行者たちに語り継がれていた。見つかれば、勿論、罰を受けるが、見つからない限りは大丈夫だった。修行に差し支えなければ大目に見られていた。

 女との愛欲に溺れ、修行に耐えられなくなって逃げ出す者もいた。女と駈け落ちする者もいた。しかし、去り行く者は追わなかった。ここに入るのは難しい。入っただけでも大したものだと回りの者から褒められる。それが、途中で逃げ出したら世間に合わす顔がない。一生、落伍者という烙印(らくいん)を押されて生きなければならなかった。

 普通、修行の場には女は入れなかった。ここは初代、風摩小太郎の考えによって、あえて女と一緒に修行させた。女の存在が邪魔になって修行できないというのは本物ではない。女に悩まされて修行のできない奴は、実戦では役に立たない。そんな奴はさっさと消えろというのが小太郎の方針だった。

 菊寿丸はおかよを抱きたいと思っているのに、おかよは断り続けていた。おかよも菊寿丸の事が好きだった。でも、今の自分の体は自分の物ではない。自分を助けてくれた夢恵尼(むけいに)という尼さんに借りがある。夢恵尼が何の目的で、自分をここにいれたのか分からないが、借りを返して、自分の体に戻るまで待っていてくれと言った。

 菊寿丸にもおかよの気持ちは分かった。菊寿丸はじっと我慢する事にした。

 おかよの話によると鵠鶴軒にいる娘たちのほとんどが孤児だという。夢恵尼がやっている孤児院に引き取られ、その中から選ばれて、ここにやって来たらしかった。

 菊寿丸は夢恵尼というのが小野屋の主人であり、愛洲太郎左衛門の娘だという事を知っていても、何の目的があって、娘たちに武芸を仕込んでいるのか分からなかった。理由は分からないが、一年間、閉じ込められた砦の中に若い娘がいるという事は、菊寿丸だけでなく、男たちにとってはありがたい事だった。彼女たちの存在がいい励みとなっているのは確かだった。

 菊寿丸とおかよが仲よくなったように、彦五郎はおくにと、助三郎はおいねと、彦次郎はおなかとうまくやっているようだった。ただ、彦次郎が好きになった、おなかという娘は伊勢家の重臣である遠山弥四郎の末娘だった。おなかは身分など関係ないと言うが、彦次郎は悩んでいるようだった。

 半次郎と小四郎はおさわという娘に惚れて、お互いに、おさわの気を引こうと躍起になっていた。おさわは娘たちの中で一番人気があり、二人の他にも狙っている男が大勢いた。当のおさわは男たちに騒がれても、まったく気にしないで修行に励んでいた。おさわは薙刀の名人で、自分よりも弱い男は相手にしないとの噂もあって、男たちはおさわに認めてもらうために強くなろうと張り切っていた。

 菊寿丸はその年の夏、垪和又次郎、間宮彦次郎、愛洲小四郎と一緒に、箱根外輪山一周を見事、一日で歩き通した。

 秋の終わり頃、半次郎と小四郎が菊寿丸に先輩を倒してくれと言って来た。

 二人が惚れていたおさわが、先輩の石井孫七郎という男に取られ、ふられた男たち全員が孫七郎を恨んでいるという。

 孫七郎はついこの間まで棒術の修行をしていた。半次郎と小四郎は孫七郎に挑んだが、簡単に負けてしまった。いつか倒してやると修行に励んでいたのに、二、三日前に孫七郎は弓術組に移ってしまった。半次郎と小四郎は孫七郎を追って弓術組に移ろうと思ったが、師範は許してくれなかった。

 弓術組には、やはり、おさわにふられた槙原八郎がいて、二人は八郎に孫七郎を倒してくれと頼んだ。弓術を始めたばかりの孫七郎は八郎の敵ではなかった。八郎は弓術の腕では孫七郎よりずっと上だった。半次郎と小四郎はよくやったと喜んだが、弓術の試合では負けたとしても、少しも痛い目にあってはいない。二人はどうしても孫七郎がみっともない姿で負ける所が見たかった。

「それで、俺にどうしろというんだ」と菊寿丸は聞いた。

「まず、お前に弓術組に移ってもらう。お前なら師範も許すはずだ」

「弓術で倒したって面白くないと言ったろ」

「いや、弓術ではやらない。孫七郎の奴と喧嘩してもらうんだ」

「俺が喧嘩を売るのか」

「いや、喧嘩を売るのは八郎に頼む」

「それじゃあ。八郎と喧嘩させればいいだろう」

「そうはいかないんだ。奴は一年めに剣術組で修行をして、二年めは棒術組だ。両方ともかなりの腕だ。奴に勝てるのはお前しかいないんだ」

 菊寿丸は二人に頼まれて弓術組に移る事になった。又次郎と共に修行を積んだお陰でかなり腕が上がり、師範も弓術組に移る事を許してくれた。弓術なんか興味のなかった菊寿丸だったが、いつか、太郎左衛門より父親が弓術と馬術の達人だと聞いた事があった。菊寿丸はここにいるうちに、その二つを身に付けようと思った。

 ただ、的を狙って矢を射るだけだろうと簡単に考えていたのに、その簡単な事が思ったより難しかった。ほとんどが的の中央に当たる八郎の腕が信じられなかった。

 負けん気の強い菊寿丸は弓術に熱中して行った。稽古の時間が終わってからも繰り返し繰り返し、矢を放っていた。菊寿丸と同じように遅くまで稽古に励んでいる男がいた。菊寿丸と同じ頃、弓術を始めた先輩の孫七郎だった。孫七郎は先輩風を吹かす事なく、同じ位の腕を持つ者として菊寿丸を対等に扱い、共に弓術の修行に励んだ。

 孫七郎と接して、菊寿丸はおさわが孫七郎に惚れたのも分かるような気がした。武術に対して真剣だった。決して、娘たちに騒がれるために強くなろうとしているのではなかった。菊寿丸は喧嘩をする事を半次郎と小四郎に断った。

「お前でも、奴には勝てないのか」と二人は聞いた。

「勝てないかもしれない。人間的な大きさにおいて、俺は奴に負けた」

「人間的な大きさ?」

「ああ、奴の心は大きい。弓術の腕は大した事はない。苦手なのかもしれない。しかし、奴は真剣になって苦手なものを克服(こくふく)しようとしている。奴は平気な顔をして一年めの修行者たちから教わっているんだ。ああいう真似はなかなかできんよ。真剣に生きているって感じがする。その真剣さにおさわが惚れたんだと思うよ」

「真剣に生きているか‥‥」

 その後、二人から孫七郎の事を聞く事はなくなった。二人ともおさわの事はきっぱりと諦めたようだった。

 

 

 


 一年が過ぎた。

 菊寿丸の仲間たち、ほとんどの者が砦から去って行った。

 菊寿丸は皆、二年間いると思っていたのに、そうではなかった。銭の事などまったく考えていなかったが、ここで修行をするには、それなりの銭が必要だった。毎日、作業はしていても、それだけではとても食っては行けない。菊寿丸の費用は当然、父親が出していた。他の者たちも皆、親が費用を出していた。親が費用を出せない場合、おかよと同じように小野屋が代わりに出して、後で返済してもらうという形になっていた。

 残ったのは太郎左衛門の甥である愛洲小四郎と伊勢家の重臣の伜である山中彦五郎と垪和又次郎、そして、奥山助三郎、その他十五人だった。菊寿丸、小四郎、彦五郎の三人の他は、又次郎、助三郎も含めて小野屋の銭を借りて残っていた。

 又次郎は伊勢家の重臣、垪和次郎左衛門の次男だった。本来なら一年間の修行を終えたら砦から去って、伊勢家の家臣になるはずだった。しかし、自分が武士には向いていないと悟り、風摩党に入る決心をした。風摩党というのは風摩小太郎の配下として、伊勢家のために裏で働く組織だった。又次郎は武将として生きるよりも伊勢家の陰となって生きる決心をしたのだった。又次郎を初めとして助三郎と他の十五人は皆、風摩党に入る事が決まっていた。

 娘たちは全員、砦から去って行った。彼女たちもこの先、風摩党の一員として生きて行くとの事だった。

 おかよは別れの時、菊寿丸をじっと見つめて、自分で編んだ組紐をくれた。菊寿丸はその組紐を腰に結び、お返しに自分で作った横笛を贈った。おかよは横笛を口に当てて得意の曲を吹いた。菊寿丸の他にも別れを惜しんでいる者たちがいて、皆が、おかよの吹く音色に聞き惚れていた。

 彦次郎はおなかと別れの言葉を交わす事ができなかった。重臣の娘であるおなかは大勢の迎えの者に囲まれて帰って行った。彦次郎はしょんぼりとして、その後を追うように砦から去って行った。

 助三郎はおいねにふられた後、おかめとうまく行ったらしく、真剣な顔をして、一年後に会う約束をしていた。

 おさわにふられた小四郎と半次郎、おくににふられた彦五郎は相手のいない男同士で固まって、別れを告げている男女をうらやましそうに眺めていた。

「三郎様、あたしの事、忘れないでね」とおかよは横笛を大事そうに抱きながら去って行った。

 十二月の十五日に砦を去る者は去り、翌十六日から来年正月の十五日まで砦は閉める事になっていた。菊寿丸たちは一ケ月間、休みがもらえるのだろうと期待していたが、そんなに甘くはなかった。その一ケ月間に陰の術と呼ばれる忍びの術の稽古が行なわれた。その師範が菊寿丸の命の恩人、小鶴だったのは驚きだった。

 小鶴は黒装束(くろしょうぞく)で木の上から突然、落ちて来た。師範が若い女だと知って修行者たちは喜んだ。しかし、小鶴の教え方は男の師範以上に厳しかった。

 木登りから始まって、城や屋敷の侵入の仕方や隠れ方、逃げ方、合図の方法、変装の仕方、特殊な武器の使い方、手裏剣(しゅりけん)術、吹き矢術、毒薬を含む薬草の使い方などの基本をみっちりと教え込まれた。後は各自が工夫して修行するようにと一ケ月が終わった。

 小鶴はいつも山の中から現れて、日が暮れる頃、山の中に帰って行った。どこに行くのだろうと不思議に思い、後を追って行く者もいたが、皆、途中で見失ってしまった。

 ある日、小鶴が稽古の後、師範たちと遅くまで話し込んでいた。その夜、小鶴は鵠鶴軒に一人で泊まった。彦五郎と小四郎が、菊寿丸がやめろと言っても聞かず、小鶴をものにしようと鵠鶴軒に忍び込んだ。二人はいつになっても戻って来なかった。うまくやったなと皆で羨ましく思っていたが、次の朝、二人は体中縛られて、雪の降る中、道場に転がっていた。

「恐ろしい女子(おなご)じゃ」と二人は震えながら何度もつぶやいていた。その後、誰もが小鶴を恐れ、命令に背く者は一人もいなかった。

 休む間もなく正月の十五日となり、新しい修行者がやって来た。二年目を迎える者たちに取って、男の修行者などどうでもよかった。皆、目をギラギラさせて、どんな娘が入って来るのか楽しみに待っていた。

 今年も去年に負けず、美人揃いが二十人入って来た。去年、ふられた男たちはニヤニヤしながら、今年こそはと希望に燃えていた。

 

 

 


 白虎軒から青龍軒に移った菊寿丸は弓術組から馬術組に移り、鞍作りの作業から薬草作りの作業に移った。

 一年間で一応、鞍を作る事ができるようになり、自分で乗って試してもみた。まだ、問題点がいくつもあり、もう一年修行を積めば完璧な鞍が作れるようになる事は分かっていたが、陰の術の修行の時に教わった薬草に興味を持って、薬草作りに移る事にした。師匠の太郎左衛門も薬草に関しては専門家で、医師でもあると聞いているので、自分もやってみたくなったのだった。

 二年目になる修行者二十人の他、九人の新人が青龍軒に入って来た。その中の二人を山中彦五郎が知っていた。荒木六郎と山角(やまかく)新五郎の二人で共に伊勢家の重臣の伜だった。

 菊寿丸は垪和又次郎、中畑孫三郎、浜田寅次と同室になった。三人共、砦を出たら風摩党の一員になる事が決まっていた。

 孫三郎の父親はこの砦の弓術師範だった。若い頃は風摩党の者たちを率いて、先頭に立って活躍していたという。孫三郎は三男で、上の兄は二人とも風摩党に属していた。孫三郎も父や兄に負けないように、去年は馬術を学び、今年は父親のもとで弓術を習っていた。

 寅次は漁師の伜で、いつも、海を恋しがっていた。ここでの修行が終わったら風摩党の海賊になって暴れ回ってやると口癖のように言っていた。

 菊寿丸は同室の三人と去年以来の仲間、山中彦五郎、愛洲小四郎、奥山助三郎を加えた七人で、いつも悪さをしていた。

 年末年始に教えられた陰の術は菊寿丸も気に入っていた。菊寿丸らは自分たちで工夫をしては陰の術の修行に励んでいた。

 二年目になると午前中の作業は義務づけられていたが、午後の武術修行は各自の好きなようにできた。自分が所属している組以外の道場に顔を出して稽古をしてもかまわなかった。自分の苦手とするものをなるべく身に付けろと師範は常に言っていた。

 菊寿丸は彦五郎、小四郎、助三郎と一緒に、小太刀が苦手だと女たちが修行している道場に入って行った。怒られるだろうと思っていたのに、小太刀の女師範は歓迎してくれた。

「久し振りじゃのう。鴨(かも)がやって来たわ」と茜(あかね)という五十歳近くになる女師範はニヤニヤしながら菊寿丸たちを眺めた。「この二、三年、いい女子が揃っているというのに、ここにやって来る男は一人もいなかった。久し振りに骨のある奴がやって来たわ」

 茜は男のように豪快に笑った。

「歓迎されるとは思わなかった」と菊寿丸たちも笑った。

「娘らを相手に稽古させたいが、こいつら、入って来たばかりで、まだ、太刀の握り方も知らん。半年程経ったら、また、来い」

「教えてやってもいいが」と菊寿丸は娘たちを見回しながら言った。

「そうか、それじゃあ、ちょっと相手をしてくれ。娘たちに小太刀とはこういうもんじゃと見せてやりたいでな」

 菊寿丸は茜と模範試合をする事となった。

「本気でかかって来い」と茜は言ったが、女を相手に本気になれるわけはなかった。菊寿丸は軽くあしらってやろうと木剣を構えた。

 茜の構えを見ても大した事はないと思った菊寿丸は見ている娘たちに格好いい所を見せようとかかって行った。ところが、菊寿丸の木剣は簡単にかわされ、尻を蹴飛ばされて惨めにも顔からつんのめってしまった。

 恥をかかされた菊寿丸は、「このくそ婆あめ!」と今度は本気でかかって行ったが、またもや、かわされて、どうなったのか分からないうちに投げ飛ばされてしまった。

 彦五郎、小四郎、助三郎も惨めに投げ飛ばされ、四人は娘たちの笑い声から逃げるように道場を後にした。

 その様子を見ていた槍術の師範が、「やはり、お前らか。茜殿にやられたのか。いい経験をしたのう」と笑いながら言った。

「くそ婆あめが」

「茜殿に投げ飛ばされた男は皆、大物になるぞ。二代目の風摩小太郎殿も茜殿に何度も投げ飛ばされたからのう」

「えっ、風摩党のお頭が?」と助三郎が目を丸くした。

「そうじゃ。茜殿に勝つまでは何度もあそこに通った。何度も恥をかいたが最後には」

「勝ったのですか」

「ああ。見事に勝ったわ。お前らも茜殿に勝てるように修行に励め。ただし、並大抵の修行では茜殿には勝てんぞ」

 菊寿丸、彦五郎、小四郎、助三郎の四人は娘たちの前で恥をかいた悔しさから、毎晩、夜遅くまで稽古に励んだ。四人に刺激されて、二年目の者たちは皆、夜遅くまで稽古していた。かといって稽古ばかりしていたわけではない。身に付けた陰の術を実際に使って師範の屋敷に忍び込んで酒を盗み、みんなで飲んだり、鵠鶴軒に忍び込んで娘たちの寝姿を眺めて楽しんだり、砦を抜け出して箱根権現の門前町まで行って遊女を抱いたりしていた。時には見つかって、罰として七日間も山歩きをさせられた事もあったが、毎日が生き生きしていて楽しかった。

 その年の菊寿丸は特に仲よくなった娘はいなかった。娘たちの前でみっともない恥をかいたため、女師範の茜を倒すまでは、娘たちに声をかける事ができなかった。それに、今年は去年のように菊寿丸に近づいて来る娘も少なかった。

 去年は女に興味を示さなかった又次郎が、今年はおひさという娘に惚れて悩んでいた。おひさに声もかけられない又次郎のために、菊寿丸らは色々と骨を折ってやった。お陰で夏の終わり頃から、又次郎もおひさと話ができるようになったが、菊寿丸らが見ていて可笑しい程、又次郎は堅くなっていた。

 去年、おさわを先輩に奪われた小四郎はおせきという娘と今年はうまくやっていた。助三郎はおあきという娘に惚れて追いかけ回していたが、どうやら、うまく行きそうもなかった。漁師の伜の寅次は同じように海で育ったおかなという娘といつも懐かしそうに海の話をしていた。今年の一番人気はおうきという娘で、彦五郎と孫三郎が他の男たちと一緒に彼女の心を射止めようと競い合っていた。

 おしげという娘がいた。元、遊女だったそうで、男なしには生きられないという程、男狂いだった。彼女は昼と夜の顔がまったく別だった。昼は真面目に修行をやり、目立たない娘だったが、夜になると妖艶な遊女に変身した。一年目の修行者は皆、彼女の餌食(えじき)となり、彼女のためにおかしくなって砦から去って行った者も多かった。

 おしげは食堂(じきどう)で、さりげなく目当ての男に手紙をやる。手紙を貰った男は夜になると彼女の指定した場所に行く。それらの場所は道場内にある物置や作業場の資材置場だという。

 呼び出された男が鼻の下を伸ばして待っていると、おしげは丈の短い寝巻姿で現れ、一枚の紙切れと筆を渡して名前を書かせる。星明かりで名前を確認すると、寝巻を脱いで裸になり男に飛び付いて来る。手慣れた手付きで男の稽古着を脱がせ、情熱的な愛撫で男を燃え立たせる。男は豊満な乳房に顔を埋め、おしげの股間をまさぐる。おしげは嬌声をもらし始め、やがて狂ったように男にしがみつき、全身を震わせながら激しく燃え尽きる。男は彼女の虜(とりこ)となって、次の夜もと期待するが、彼女は前の晩の事など、すっかり忘れたかのようにつれなく、別の男を誘い込む。

 おしげは最初、白虎軒の者たちを狙っていたので、菊寿丸たちは彼女の事をまったく知らなかった。青龍軒の者を狙い始めたのは秋になってからだった。何人目かに山角新五郎が狙われた。新五郎は手紙に指定された通り、作業場の資材置場に行って、おしげを抱いた。次の晩もと期待したが、完全に無視され、白虎軒の者から彼女の噂を聞き、菊寿丸たちにおしげの事を話したのだった。

「ほう、そんな娘がいたのか」と菊寿丸たちは驚き、食堂で新五郎から、おしげを教えられた。昼間のおしげは、そんな事をする娘には見えなかった。控えめなおとなしそうな娘だった。

「あれが片っ端から男をくわえ込んでる女か」と小四郎はたまげた。

「あの娘なら、くわえられてもいいのう」と彦五郎はジロジロとおしげの体を眺めた。

「名器です」と新五郎は言った。「一度、抱いたら忘れられません」

「ほう、名器か」と彦次郎がニヤニヤした。

「ただ、男の方から誘う事はできません。残念ながら」

「おしげが選ぶわけだな」

「まだ、二年目の奴は一人もいないだろう。誰が最初に選ばれるか、賭けるか」

 菊寿丸らはそれぞれ自分に賭けた。その賭けに勝ったのは薙刀組の諏訪源次郎だった。その後、小四郎、彦五郎も彼女を抱いて、すごい女だと感心していた。機会があれば、もう一度、やりたい女だと言い合っていた。

 又次郎も手紙を貰ったが、おひさに夢中になっていたので指定場所には行かなかった。勿体ないので、代わりに菊寿丸が行ったら、又次郎じゃないと言って、彼女はさっさと帰ってしまった。菊寿丸は彼女にふられて腹を立てたが、どうしようもなかった。しかし、十二月の十四日の最後の晩、菊寿丸は彼女から手紙を貰った。指定場所は道場の裏山にある炭焼き小屋だった。

 菊寿丸が行くと、すでに彼女は待っていた。噂とは違って、この砦に入って来た時に着ていた小袖(こそで)姿だった。月明かりに照らされて、おしげは炭焼き小屋の前で、しおらしく菊寿丸を待っていた。

 菊寿丸がそばに行くと頭を下げ、「いよいよ、明日でお別れですね」と言った。

「そうだな」と菊寿丸は答えて、満月を見上げた。

「お願いします」とおしげは噂通りに紙切れと筆を渡した。

 菊寿丸は荏原三郎と名前を書いて返した。

「どうして、一々、名前を書かせるんだ」

「記念です」

「記念か‥‥」

「あたしを抱いた男の人が活躍してくれれば嬉しい」

「そんなもんかね」

「この間はすみませんでした。あなたは一番最後って、最初から決めていたんです」

「どうして俺が最後なんだ」

「一番、強いから」

「俺は何人目だ」

「百人目」

「何だと」と菊寿丸は驚いた。「ここには百人もおらんぞ」

「います」

「師範たちともやったのか」

 おしげはうなづいた。

「あなたが最後です」と言うと、おしげは菊寿丸を炭焼き小屋の中に誘った。

 おしげは菊寿丸を見つめながら帯を解いて小袖を脱いだ。窓から入って来る月明かりの中、おしげの体はなまめかしく光っていた。

 裸になったおしげは菊寿丸に抱き着き、稽古着を脱がせた。噂通りにおしげの情熱的な愛撫を待っていたが、おしげは菊寿丸に抱き着いたまま、何もしなかった。

 話が違うと思いながら菊寿丸は、おしげの体を愛撫し始めた。寒さも忘れて、二人は何度も燃え、菊寿丸はおしげの名器を充分に堪能した。夜が明け、外が明るくなって来るまで二人は抱き合っていた。

 おしげは一年間で百人抜きをやり遂げて砦を去って行った。彼女が何のために百人抜きをしたのかは誰も知らないが、『百人抜きのおしげ』という名は、いつまでも、風摩砦の語り草となった。

 最後の日、菊寿丸は茜と試合をやり、ようやく彼女に勝てた。これで悔いなく砦を去る事ができた。

 菊寿丸は風摩党に入った又次郎たちと別れ、小四郎、彦五郎らと韮山の城下へと向かった。

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