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摩利支天の風~若き日の北条幻庵

小田原北条家の長老と呼ばれた北条幻庵の若き日の物語です。

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2.韮山城

2.韮山城

 

 

「やだよ~」と言いながら少年が走っていた。

 腰に棒切れを挟んで、後ろを振り返りながら走っている。顔も手も墨で真っ黒だった。

 少年を追いかけているのは、たすき掛けをした若い娘で、「菊寿丸(きくじゅまる)様」と叫びながら追いかけている。

 少年は時々、その娘に向かって両手を振ったり、棒切れを振ったりしながら追いかけっこを楽しんでいた。

 少年は庭に植えてある樹木(きぎ)の中を走り回って、木戸を開けると外へ出て行った。

「そっちへ行ってはいけませんよ」と後ろで娘が叫んでいたが、少年は笑いながら外に出て行った。

 木戸を抜けるとそこは別世界だった。少年にとって、そこには珍しい物がいっぱいあった。大きな台所では女たちがワイワイ言いながら働いている。時には驚くほど大きな魚を見る事もあったし、綺麗な鳥を見る事もあった。包丁師と呼ばれる男が包丁でそれらを見事に切り刻んで行く様は見ていて面白かった。台所の向こうは広く、そこには何頭もの馬がいた。偉そうな髭(ひげ)を伸ばした侍(さむらい)もいる。皆、怖そうな顔をしていても少年には優しかった。

 少年は台所の中を覗いたが、珍しそうな物が見あたらないので廐(うまや)の方へと向かった。いつもと違って、ひっそりとしていた。いつもなら井戸の側で馬の世話をしているのに、今日は馬の姿がなかった。遠侍(とおざむらい)と呼ばれる侍の溜まり場にも大勢の侍の姿が見えない。

 おかしいなと思いながら、少年は廐の中に入って行った。

「いけませんよ」と後ろから声が聞こえて来るが、少年は振り向きもしなかった。

 廐の中に馬はいた。しかし、二頭だけだった。少年は廐を通り抜けて、土塁の隅に立つ見張り櫓(やぐら)の方に向かった。石段を登って土塁の上に立つと広々とした景色が見渡せた。

「若様、どうなされた」と上から声が聞こえた。

 見上げると二人の侍が笑っていた。一人は小五郎という知っている侍だった。

「顔が真っ黒じゃ」

「ねえ、登ってもいい」と少年が聞くと、

「来い、来い」と侍は手招きをした。

「駄目ですよう」と土塁の下では娘が息を切らせながら叫んでいる。

「七重(ななえ)殿、大丈夫じゃ、心配いらん」と侍は言った。

 少年は喜んで見張り櫓の梯子を登った。櫓に上がるのは初めてだった。いつもは怖い侍がいて追い返されていたのに、今日はその侍はいなかった。

 少年はやっとの思いで梯子(はしご)を登ると櫓の上に立った。梯子の下では冷や冷やしながら七重と呼ばれた侍女(じじょ)が見守っていた。

 櫓の上は思っていたより高かった。下を見ると目がくらみそうだったが、回りの眺めは最高だった。少年はニコニコしながら回りの景色を眺めた。


「あそこがお城の本曲輪(ほんくるわ)だ」と小五郎が言って指を差した。

 少年が暮らしている屋敷の裏山が城になっていて、その一番高い所に本曲輪はあった。本曲輪には少年のいる見張り櫓よりも大きく立派な櫓が立っていた。

「あっちのがずっと高いや」と少年は叫んだ。

「うむ。向こうの櫓の方が見晴らしがいい」

「登りたい」

「もう少し大きくなったら連れて行って差し上げましょう」

「若様は高い所がお好きなようだな」ともう一人の侍が言った。

「だって、高い所は気持ちいい」

「ほう、気持ちいいか、頼もしいお方だ。ほれ、あの山のてっぺんにもお城がある。あそこはうんと高いぞ」

 少年は本曲輪のさらに向こうにそびえる山を見上げた。

「あの山の上にお城があるの」

「そうだ。敵が攻めて来たら、あの山のお城で戦うんだ」

「敵って」

「敵っていうのはのう、悪い人たちの事だ」

「悪い人たちが、ここに攻めて来るの」

「いや、大丈夫だ。若様のお父上に逆らう者はもうここにはおらん」

「悪い人たちはもういないの」

「うむ、この辺りにはのう」

「菊寿丸様、もう降りてらっしゃい」と下で七重が言った。

「もう少し」と菊寿丸は答えると今度は城と反対の方に目を移した。

 広々とした草原がずっと続いていた。その草原の中をいくつもの川が蛇行しながら流れている。所々にたんぼがあって、働いている人たちが小さく見える。静かで平和な所だった。

「若様、あそこの丘をご覧なさい」と小五郎が言った。

 菊寿丸は小五郎の指差す方を見た。

「あそこに公方(くぼう)様がおられた」

「そんな難しい事を言っても分かるまい」ともう一人が言った。

「分からんかもしれんが知っていた方がいい」

「公方様って何」

「公方様っていうのは悪い人の親玉だったんだ。それを若様のお父上が追い出して、この国を平和な国にしたんだよ」

「へえ。あそこに‥‥」

「公方様が悪党の親玉か、こいつはいい」ともう一人の侍が笑った。

「おぬしは黙ってろ」

「ねえ、いつもの怖いおじさんはどこ行ったの」と菊寿丸は小五郎に聞いた。

「怖いおじさん?」

「いつも、ここにいる怖いおじさん」

「おお、石巻殿だ。あのおじさんはの、ちと出掛けたわ。ゆうべ、大きな地震があっただろう。あっちこっちで被害が出てのう。みんな、出掛けて行ったんだ」

「ふーん。それで、お馬もいないんだね」

「そうだよ。みんな、お馬に乗って出掛けて行ったんだよ」

「若様、降りてらっしゃい」と下から言ったのは七重ではなかった。

「爺(じい)が来た」と菊寿丸は小五郎の顔を見た。

「そろそろ、降りた方がいい」と小五郎は苦笑しながら言った。

「おい、新次郎、何をやっとるんじゃ」と爺は怒鳴っていた。

「俺の親父だ」と新次郎は小声で菊寿丸に言った。

 菊寿丸は不思議そうに新次郎を見つめた。

「登る事はできても、一人で降りるのは無理だろう」と小五郎は言った。

「大丈夫だい」と菊寿丸は言って梯子の所まで行ったが、下を見ると震える程、恐ろしかった。

「新次郎、お前がおぶって降ろすんじゃ」

 菊寿丸は新次郎の背中にしがみついて、ようやく下に降りる事ができた。

 七重が泣きながら爺に謝っていた。

「若、櫓に登りたかったら登ってもいい。じゃがのう、登る前に降りる時の事も考えなけりゃならん。もし、上にも下にも誰もいなかったらどうするんじゃ。ずっと、そこにいなけりゃならんのじゃぞ」

 菊寿丸は泣いている七重を見ながら、しょんぼりとしていた。

「さあ、戻って、手習いを始めなさい」

 爺が遠侍の方に消えると菊寿丸は七重の手を振りほどいて、中門の方に走って行った。

「菊寿丸様」と七重は追いかけて行った。

 中門を抜けると屋敷の正面に出て、表門を抜ければ外に出られた。表門には門番がいて、外に出る事はできなかったが、もしかしたら今日は出られるかもしれないと菊寿丸は思っていた。

 菊寿丸が追って来る七重を振り返りながら走っていると突然、何かにぶつかって弾き飛ばされた。

 右腕に痛みが走った。菊寿丸はじっと我慢して、ぶつかった物を見上げた。見た事もない男が立っていた。

 頭の上に角があった。長い棒を手にして恐ろしい顔で菊寿丸を見下ろしていた。

 菊寿丸は話に聞いている鬼だと思った。七重を困らせてばかりいるから、鬼が出て来たのだと思った。

 鬼は菊寿丸の方に手を差し出した。菊寿丸は鬼に食べられてしまうと思って大声で泣き始めた。

 七重がやって来ると、「ごめんなさい」と謝りながら抱き着いた。

 七重は優しく菊寿丸を抱いてくれた。七重に抱かれていると右腕の痛みも消えて、気も静まった。もう、鬼もいないだろうと振り返ってみたが、鬼はまだいた。

「ほう。菊寿丸殿か、元気のいい子じゃ」と鬼は笑いながら言った。

「申し訳ございません」と七重が鬼に謝った。

「いや‥‥お屋形様はおられるかな」

「はい。離れの方におられると思います‥‥あの、どちら様でしょうか」

「ああ、失礼いたした。愛洲(あいす)太郎左衛門と申します」

「愛洲様といいますと、あの、紀州(和歌山県)から水軍をお連れしたというあの愛洲様ですか」

「ええ、そうです」

「お噂はお聞きしております‥‥でも、そのお姿は?」

「これですか。普通、山伏と水軍はつながらないように思うでしょうが、紀州の水軍は元々、熊野の山伏だったのですよ」

「そうなのですか‥‥すると、愛洲様も行者(ぎょうじゃ)さんなのですか」

「そういう事ですな」

「ご案内いたします」

「いえ、分かりますから‥‥菊寿丸殿、お父上に負けない武将になるんじゃぞ」

 鬼は菊寿丸の頭を撫でると客殿の方へと歩いて行った。

「あれは鬼じゃないの」と菊寿丸は七重に聞いた。

「鬼? いいえ、違いますよ」

「でも、鬼みたいな格好をしている」

「あれはね、行者様といってお山の中で厳しい修行をなさっている偉いお人なのよ」

「山の中で‥‥」

「そうよ。さあ、もう、逃がさないわよ」

 菊寿丸は七重に引っ張られて裏にある屋敷に戻った。

 

 

 


 菊寿丸は鬼に興味を持った。

 七重の目をかすめて、すぐ上の兄、千代松丸と一緒に部屋から抜け出し、父親が鬼と一緒にいるはずの離れへと行った。

 離れは湯殿の後ろの一番隅のちょっとした高台の上に建っていた。広い屋敷内に部屋がいくつもあるのに、父親はいつも、その離れで何かをやっていた。

 菊寿丸の父親はみんなから『お屋形様』と呼ばれる偉い人なのだが、菊寿丸にはそんな風には見えない。頭がつるつるで、いつも質素ななりをしている。侍のくせに刀を持っているところを見た事がなかった。遠侍にいる侍から、父親が戦の先頭に立って活躍したという話は何度も聞いていても、菊寿丸には信じられなかった。

 離れの縁側に鬼は腰掛けていた。しかし、その鬼は菊寿丸がぶつかった鬼ではなかった。もっと年を取った鬼だった。その鬼は木陰に隠れている菊寿丸と千代松丸を見付けて手招きした。

 菊寿丸は兄の顔を見た。

 兄は菊寿丸を肘でつついて、行って来いというように目配せした。

 菊寿丸は首を振った。「やだ、鬼に食べられちゃう」

「あれは鬼じゃない。山伏っていうんだ」

 二人が木陰でモジモジしていると父親が顔を出して、「何をやってるんじゃ。二人とも来い」と呼んだ。

 二人は恐る恐る離れに近づいた。部屋の中に、さっき会った鬼ともう一人、髭だらけの鬼が笑いながら座っていた。

「山伏の姿に興味があるらしいのう」と髭だらけの鬼は言った。

「成程、ここでは見かけんからのう。松と菊、この三人はのう、わしの古い友じゃ。風摩(ふうま)小太郎、栄意坊(えいいぼう)、愛洲太郎坊といってな、三人共、武術の達人じゃ。そのうち、お前らも世話になる事じゃろう、覚えておけ」

 菊寿丸と千代松丸は縁側に座らせられ、三人の山伏を紹介された。

「三番めと四番めかな」と小太郎という鬼が父親に聞いた。

「そうじゃ。その下に娘がいるんじゃよ」

「いい年をして頑張ったのう」と栄意坊という髭だらけの鬼が大きな口を開けて豪快に笑った。

「我ながら恥ずかしいがのう、よくできたもんじゃ」

「子供は多い方がいい。これからの事を考えるとのう」

「うむ、それは言えるが、もうこれ以上は無理じゃ」

「そんな事はあるまい。おぬしの奥方はまだ若い。おぬしさえ頑張れば、まだまだ作れる」

「いやいや、もう駄目じゃよ」

「驚きますね。三人共、もうすぐ七十になるとは、とても思えませんよ」と太郎坊という鬼が言った。

「若かった頃、七十といえば、死にぞこないの爺いじゃと思っておった。まさか、自分が七十まで生きるとはのう」と小太郎という鬼が言った。

「まったくじゃ。しかし、あっという間じゃったような気もするのう」と栄意坊という鬼が言った。

「二人とも何を言ってるんじゃ。七十じゃろうが、八十じゃろうが、わしはまだまだ生きるぞ、やる事が残っとるからのう」と父親が言った。

「三浦道寸(どうすん)ですか」と太郎坊が聞いた。

「うむ」と父親はうなづいた。「奴を倒すまではのう」

「それに子供の事もあろう。あんな幼い子を残しては死ねまい」

「そうじゃ。千代丸の奴が一人前になるまでは死ねんわ」

 四人の大人の話は続いていた。年齢の話から昨日の地震の事に話題は移って、あちこちの被害状況を真剣な面持ちで話し合っていた。その話題は幼い二人には面白くなかった。

 菊寿丸と千代松丸は大人たちに頭を下げると縁側から下りて、屋敷の方に帰って行った。

 菊寿丸がここ、伊豆の韮山(にらやま)城に移って来たのは四年前の二歳の時だった。駿河(するが)の国、富士山の裾野にある興国寺(こうこくじ)城で生まれたのだが、その頃の事はほとんど覚えていない。

 ここに来て四年間、菊寿丸はお屋形と呼ばれる大きな屋敷内で、兄弟と共に侍女に囲まれて何不自由なく平和に暮らして来た。

 菊寿丸には三人の兄と一人の妹がいた。一番上の兄、千代丸は二年前からお屋形を出て、小田原という遠い所に行ってしまった。二番目の兄、富士千代丸は今年の春から三島の禅寺に入っている。妹の美保はまだ三つだった。

 菊寿丸と千代松丸が屋敷に戻ると、ハルという侍女が目をとがらせて待っていた。

「どこに行ってたんですか、まったく。七重さんがまた泣きながら捜し回ってますよ」

 菊寿丸はすぐに七重を捜しに走った。

「これ、待ちなさい」とハルが叫んだ。

 菊寿丸は見張り櫓の方に走って行った。

 七重はいたが、泣いてはいなかった。泣いているどころか、見張り櫓の上でキャーキャー言いながら景色を眺めていた。

 菊寿丸は櫓の下から七重を呼んだ。

 小五郎と新次郎が手招きをした。

「若様、親父は今さっき出掛けて行った。怒られる心配はないぞ」と新次郎が言った。

 菊寿丸は大きくうなづくと梯子を登った。

「いい眺めねえ」と七重は菊寿丸の肩を抱きながら遠くを眺めた。

「どうして、七重はここに登ったの」と菊寿丸は不思議そうに聞いた。

「ここに登ったら、菊寿丸様がどこに行ったのか、すぐに見つかると思ったからよ」

「若様、実は七重殿も高い所が好きなんだよ。子供の頃、よく木登りをしていたわ」と小五郎が言った。

「七重が木登りを?」

「そうじゃ。今はしおらしくしてるがのう、ガキの頃は男の子をよく泣かしたもんだ」

「へえ、そいつは以外だな」と新次郎は目を細めて七重の横顔を見つめた。

「下から覗くのが楽しみでな、七重が木登りをするとニヤニヤしながら眺めていたっけ」

「やめてよ、もう」

「いい眺めだった」

「もう、やめてったら」

「大道寺孫次郎の奴なんか、何度も七重に泣かされたんだ」

「奴がか、信じられん」

「俺はてっきり、七重は女武者になると思っていた。それがお屋形様の侍女に納まってしまった。勿体ない事だ」

「もういい。菊寿丸様、もう降りましょ」

「分かった、分かった。もう言わん。もう少し眺めを楽しんで行け。今日みたいな日は二度とないだろう。うるさいお偉方が帰って来たら、もう、ここには登れんからな」

「もう登れないの」と菊寿丸は聞いた。

「ああ、当分、無理じゃ」

「気持ちいいわ、ね、菊寿丸様」

 七重の長い髪が風に揺れていた。

 菊寿丸は七重の顔を見上げながら、いつもと違う七重を感じていた。

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