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摩利支天の風~若き日の北条幻庵

小田原北条家の長老と呼ばれた北条幻庵の若き日の物語です。

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11.桔梗1

11.桔梗1

 

 

 静かな風ケ谷村で、菊寿丸は午前中は連歌と茶の湯の修行をして、午後は四番組の砦に通う毎日が続いていた。

 太郎左衛門は毎日、家にいて仏像を彫ったり、尺八を吹いたり、絵を描いたり、子供たちに武術を教えたりしていた。

 桔梗によると、太郎左衛門がこんなにもずっと家にいるのは初めての事だという。

 桔梗が生まれた頃は、風摩党の水軍を作るため家にいた事がなかった。小太郎と竜太郎の二人を連れて、一年間、旅に出た事もあった。旅から帰って来た後も水軍の砦に行ったり、武術道場の師範をやったりと忙しく動き回っていた。

 初代の小太郎が亡くなった後は風摩党の後見役になって、さらに忙しくなった。三年間の後見役が終わった後、半年程、家にいた事があった。桔梗が八歳の時だったという。桔梗はその時、ずっと家にいてくれと摩利支天に願ったが、また旅に出てしまった。

 小野屋の初代の女将、松恵尼が亡くなると、桔梗の義姉の百合が小野屋を継ぐ事となり、百合と一緒に各地にある小野屋の出店に出掛けて行った。また、風摩党の水軍を率いて、三河の国まで出陣した事もあった。その後、菊寿丸と一緒に二年近くも旅を続け、帰って来てからも、三浦氏を倒すために風摩党と共に各地に飛んでいた。

 太郎左衛門もすでに六十歳を過ぎ、ようやく落ち着いたみたいと桔梗を初めとして家族の者たちは喜んでいた。

 その年も終わる頃、菊寿丸は久し振りにおともとばったりと出会った。おともは太田六郎左衛門の侍女として江戸城に入っていたが、六郎左衛門が戦死したので帰って来ていた。今は竜太郎の屋敷で、寝込んでいる竜太郎の母親の看病をしているという。

「江戸城はどうだった」と菊寿丸は聞いた。

「よかったわ。でも、ああいう所に長く住んでいると贅沢に慣れちゃって困るわね」

「そんなに贅沢なのか」

「すごいわ。飢饉の時だって、お城下に餓死する人が大勢いるっていうのに、お城の中では毎日のように飲めや歌えと騒いでいるのよ。ああいう所にいると世の中の事がまったく分からなくなるわ」

「へえ。韮山の城とは全然違うな」

「そうよ。領民の事なんて、これっぽっちも考えていないわ」

「城内にいたお前が出てしまったら、これから城内の事が分からなくなるな」

「いいえ。新しく太田のお殿様の御長男のもとへ側室が入ったから大丈夫よ」

「へえ。誰が側室になったんだ」

「あなたは知らないわよ。砦を出たばかりの娘が二月に入ったのよ。越後の上杉氏の重臣の娘という触れ込みで入って来たわ」

「越後の娘か」

「どうも、それは本当らしいわ。小塩の方と呼ばれているわ」

「コシオのカタ‥‥」

「知ってるの」

「いや」と菊寿丸は首を振った。

 風摩の山賊のもとで菊寿丸の世話をしてくれたコシオに間違いなかった。あの後、すっかり忘れていたが、やはり風摩党に入っていた。あのコシオが側室として江戸城に入ったとは驚きだった。しかし、それ以上に驚くべき事を菊寿丸はおともから聞かされた。

 般若亭の遊女、羽衣が殺されたという。

「なんだって、そんな馬鹿な‥‥どうして、羽衣が殺されるんだ」

 菊寿丸はおともに詰め寄った。

「どうしたの。知ってる娘なの」

「二年めの時、一緒だったんだ」

「そうだったの‥‥あたしも詳しい事は知らないのよ。あれは九月の末頃だったかしら。太田のお殿様が出陣中の時だったわ。平川の河原で血まみれの死体が見つかったの」

「平川の河原で?」

「そう。体中、傷だらけの惨(むご)い殺され方だったっていうわ。何も着てないので身元も分からなかったらしいの。でも、羽衣がいないって般若(はんにゃ)亭の女将さんが死体を見に来て、やっと分かったのよ」

「何で羽衣が殺されるんだ」

「どうも深追いし過ぎたみたいね。あの頃、風摩党は江戸の兵がいつ出陣するかを探っていたから、羽衣もその事で何かを調べていて殺されたのかもしれない」

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12.桔梗2

12.桔梗2

 

 

 一年が経ち、十二月の末、桔梗も菊寿丸も四番組の砦から下りた。

 翌年の正月、小太郎夫婦の仲人(なこうど)によって菊寿丸と桔梗は祝言を挙げた。村中が大騒ぎして、二人を祝福してくれた。

 二人が砦にいるうちに太郎左衛門らによって、立派な屋敷が用意されていた。小太郎の屋敷の隣に小山助左衛門の屋敷があって、その隣が菊寿丸夫婦の新居だった。左斜め前には竜太郎の屋敷があった。敷地も小太郎の屋敷と同じ位に広く、二人だけで住むには広過ぎる屋敷だった。

 二人を祝うために様々な人が新居に訪ねて来た。特に小野屋の夢恵尼には驚かされた。所帯道具一式を荷車に山のように積んで来て、お祝いだと贈ってくれたのだった。その中には塩や味噌から始まって、豪華な着物や備前物の名刀までもが入っていた。

 一番組のお頭、寺田惣次郎は毛皮と鞣革(なめしがわ)を持って来た。二番組のお頭、藤本市左衛門は名馬を二頭引いて来た。一番組も二番組もすでにお頭が代わっていた。菊寿丸の知っている一番組のお頭、青木新太郎は嫁を貰って引退し、今は三番組に入って猟師をやっている。隣に住んでいる小山助左衛門も嫁を貰って、二番組のお頭を引退し、今は風摩砦で馬術の師範になっていた。

 三番組のお頭、杉山半兵衛はお茶道具一式を持って来た。四番組のお頭、風雷坊は風仙坊が作ったという仕込み杖をくれた。その杖は、菊寿丸が太郎左衛門にならって、いつも持ち歩いていた五尺の杖と同じ長さで、太さも丁度よかった。

 五番組のお頭、西村藤次郎は生きのいい大きな鯛とあわびを持って来た。鯛とあわびは藤次郎が連れて来た包丁師によって見事に切られ、村中に配られた。

 二月の始め、菊寿丸は桔梗を連れて韮山城に向かった。父、早雲に桔梗を見てもらうためと、村から出た事のない桔梗に城下の賑わいと海を見せたかったからだった。出掛ける前に義父となった太郎左衛門に挨拶に行くと、ニコニコして二人を迎えたが、韮山に行くと言うと顔を曇らせた。

「お前、ツグミとかいう女に狙われているそうじゃな」と太郎左衛門は菊寿丸に聞いた。

「ツグミが韮山にいるのですか」

「ねえ、ツグミって誰なの」

 菊寿丸は桔梗にツグミの事を説明した。

「へえ、そんな事があったの。でも、大丈夫、あたしが、その女から守ってあげる」

「馬鹿、言ってるんじゃない」と太郎左衛門は娘を睨んでから、「そのツグミとやらは霊仙坊と結び、韮山、小田原、玉縄でお前が現れるのを待ち構えているはずじゃ」と菊寿丸に言った。

「ツグミはどこにいるのです」

「風松坊が捜し回っているが、どこに隠れているのか分からんそうじゃ。しかし、お前が韮山に行けば、必ず、現れるじゃろう」

「霊仙坊はどこにいるのです」

「大山にいる。三浦が滅びん限り、風摩党もあの山には入れんからな」

「それじゃあ、韮山のお城下には行けないの。海も見られないの」と桔梗が菊寿丸を見て、父親を見た。

「師匠、いや、父上、霊仙坊の一味は俺の顔を知らないんじゃないですか」と菊寿丸は聞いた。

 太郎左衛門はうなづいた。「多分、知らんじゃろう。しかし、お前が韮山のお屋形に出入りすれば顔は知れる」

「門から入らないで忍び込めばいいんじゃないの」と桔梗が言った。

「いや、いつまでも逃げていてもしょうがない。俺がおとりになりますから、ツグミが出て来たら一気に倒しましょう」

「危険過ぎる」と太郎左衛門は反対した。「敵を甘くみるな。今のお前は伊勢家の息子だけではなく、風摩一族の一人でもあるんじゃ」

「風摩一族の一人‥‥」

「そうじゃ。風摩小太郎はお前の義理の兄じゃろ。初代小太郎殿が生きておられた時、早雲殿はよく、この村に来られた。村の者たちに気楽に声を掛け、早雲殿はみんなから、お屋形様と慕われていた。みんなが命懸けで働いて来たのは、早雲殿の人柄をみんなが知っていて、あの人のためなら命を懸けられると思ったからじゃ。初代小太郎殿が亡くなり、早雲殿も年を取られて、ここに来る事もなくなった。ここに住む者たちは早雲殿の跡を継ぐ新九郎殿を知らない。もし、早雲殿が亡くなってしまったら、伊勢家のために働くといっても実感がわかんのじゃよ。村の者たちが不安に思っていた時、お前がこの村に来て、桔梗と一緒になって風摩一族となった。村の者たちは噂によって、お前が今まで何をして来たか知っている。そして、お前のためなら命を懸けても働いてやろうじゃないかと思っているんじゃ。風摩党の者たちにとって、伊勢家というのはお前の事なんじゃよ。お前は早雲殿の分身なんじゃ。お前の命は自分だけの物じゃない。風摩党全員の命でもあるんじゃ」

「‥‥しかし、一人の女を恐れて韮山にも行けないなんて、親父だったら、きっと行くと思います」

「そうよ。お父さんだって菊寿丸様の立場に立ったら、きっと行くと思うわ」

「確かにそうじゃが‥‥」太郎左衛門は菊寿丸と桔梗を見て、仕方ないと言った顔付きで渋々うなづいた。「分かった。ツグミをおびき出そう。ただし、準備をするため、一日だけ伸ばしてくれ。今日はここに泊まって行け。万太郎の奴が淋しがっているからな」

13.小机城

13.小机城

 

 

 永正十四年(一五一七年)の正月、菊寿丸は伊勢三郎長綱と名乗り、妻の桔梗と一緒に、伊勢家の家臣たちに披露された。そして、次の日、新しい家臣を引き連れて、小机城(横浜市港北区)を攻め取るために出陣した。

 すでに、風摩党の一番、二番、四番組の者たちが野武士集団となって、去年の暮れから一日も休まず、夜襲を繰り返して、小机城を守る敵兵を悩ませていた。野武士集団は夜になると、どこからともなく現れ、城内に潜入しては荒らし回り、夜が明けると消えてしまう。正月を祝う事もできず、城兵たちは寝不足が続き、イラついていた。かといって、江戸から援軍を頼む程でもなかった。五十人程度の野武士に悩まされているからといって援軍を頼む事はできなかった。

 韮山城下を出てから三日め、三郎は兵を率いて、多米三郎左衛門が守る権現山城(横浜市神奈川区)に入った。そして、その夜、小机城に夜襲を仕掛けた。三郎が率いて来た兵は三百、三郎左衛門の兵は五百、それに風摩小太郎が二百人を率いて加わり、さらに近在の農民たちも一千人程加わり、合わせて二千人が松明(たいまつ)を持って小机城を囲んだ。

 城内では、今晩もまた、野武士たちがやって来るだろうと、あちこちに罠(わな)を仕掛けて待ち構えていた。しかし、今晩やって来たのは野武士ではなく、松明を持った大軍だった。長い列を作って権現山城から近づいて来る大軍を見ながら、城兵たちの恐れは極限に達した。大軍に囲まれ、あの野武士たちに城内に潜入されたら城は簡単に落ちてしまう。城兵たちは三郎たちに囲まれる以前に全員が逃げ出して行った。野武士たちがいつものように城内に潜入した時には、誰一人としていなかった。

 三郎は敵兵を殺す事なく、城を焼く事もなく小机城を手に入れた。

 翌朝、三郎は城内を見て回り、この城が南の敵に対するよりも北の敵に対する方が適している事を確認した。三郎は普請奉行に任じた遠山五郎に北側の防御を強化するように命じた。

 城下作りも始まった。小野屋の夢恵尼によって多くの職人や人足たちが集められ、朝から晩まで活気に満ちていた。

 三郎の屋敷は西の曲輪(くるわ)に建てる事に決まった。

 小机城には東の曲輪と西の曲輪があり、東の曲輪の方が大きかった。以前、西の曲輪には物見櫓(やぐら)が立ち、権現山城の方を睨んでいたが、その櫓は不要となり、東の曲輪の方に移され、新しく三郎の屋敷が建てられた。東の曲輪には奉行所を置いて、兵たちの駐屯地とした。西の曲輪と東の曲輪との間に細長い曲輪があり、そこには三郎の直属の兵として小山助左衛門率いる騎馬隊をいつでも出撃できるように待機させた。

 三月になり、城下もほぼ落ち着いた頃、桔梗が子供を連れ、小鶴たちに守られてやって来た。できたばかりの城下から城を見上げて、桔梗は喜ぶと同時に、この城の奥方としてやって行けるかどうか、不安に襲われた。重い足取りで城に登り、東曲輪で訓練している大勢の兵たちを見て、不安はさらに増した。それでも、西曲輪の屋敷に案内され、そこで待っていた女たちの顔を見ると、不安はすっかり取り払われた。

 侍女のいずみ、おそめ、おきみ、おふで、そして、尼僧になったおふじ、皆、共に修行をした仲間だった。いずみ以外は皆、風摩党で、おきみとおふでは四番組のくノ一だった。桔梗を守るために小鶴より送られて来たのだった。尼僧のおふじは城下の尼寺に住む事になっているという。桔梗は久し振りに会う五人と話が弾み、時の経つのも忘れた。

 頭を丸めた愛洲移香斎は桔梗母子を小机に送ると、万太郎を小太郎に預けて、当てのない旅に出てしまったという。三郎は移香斎も共にここに呼び、もっと色々な事を学びたかった。しかし、移香斎の妻が急に亡くなってしまい、その事を言い出す事ができなかった。三郎はまた、いつの日か、移香斎が戻って来てくれる事を祈った。

 城主となり、三郎は何かと忙しかった。こちらに来てから、新たに二百人程の家臣も抱えた。その中には、以前、敵として、ここを守っていた者もいた。彼らはこの辺りの郷士たちで、自分の領地を守るために扇谷上杉氏の家臣となっていたが、扇谷上杉氏に見切りをつけ三郎の家臣となった。

14.江戸城

14.江戸城

 


 早雲の三回忌も過ぎた。

 江戸城の扇谷上杉修理大夫はついに管領になる事を夢見て、鉢形城の管領上杉兵庫頭を攻撃した。しかし、敗れて、多くの兵を失い江戸城に逃げ戻って来た。

 今こそ、江戸城を攻め取るべきだと、三郎は韮山城に出向いて、兄、新九郎に進言したが、新九郎は首を振った。

「確かにお前の言う通り、江戸城を落とす事はできるかもしれない。しかし、孤立している江戸城は、すぐに取り戻されてしまうじゃろう。多摩川以南だけではなく、江戸城の回りの武士たちも味方に付けなくてはならん。焦る事はない。着実に少しづつ片付けて行く事じゃ」

 新九郎は言い聞かせるように言った。

 三郎は兄の言う通りだと納得して、敵の寝返り工作をさらに進めた。その頃、妻の小笹が初めての男の子を産んだ。三郎は勿論の事、城下の者たち全員が大騒ぎをして喜んだ。

 三郎の跡を継ぐべき男の子は笹寿丸(ささじゅまる)と名づけられた。

 大永二年(一五二二年)の正月、新九郎は本拠地を韮山城から小田原城に移し、城の拡張工事を始めた。城下にある鶴森(つるもり)明神(後の松原神社)も新たに再建して、別当の杉之坊に大和の国、大峯山で修行を積んでいた風摩小太郎の弟、玉滝坊(ぎょくりゅうぼう)が入った。三郎が近江の飯道山に行った時、剣術師範だったあの玉滝坊が帰って来たのだった。

 三郎は小机にやって来た玉滝坊と小野屋の小太郎の部屋で再会した。

「久し振りじゃな」と玉滝坊は馴れ馴れしく三郎に挨拶した。

「なんじゃ、知っていたのか」と小太郎は驚いた。

「わしが飯道山にいた頃、太郎坊殿とやって来て、百日行をやってのけたわ。あれはもう十年、いや、もっと前になるかのう」

「私が十五の時ですから、十五年前です」と三郎は言った。

「十五年も前か‥‥早いもんじゃ」

「ほう」と唸りながら小太郎は三郎を見た。「飯道山で百日行をやったとはのう。しかも十五の時にか‥‥こいつはたまげたわ」

「あの時、もう一人いたが、あいつはどうしてる」と玉滝坊は聞いた。

「あいつは美濃にいます。長井新九郎と名乗って活躍しているらしいです。美濃の国を乗っ取ると言っていますが、どうなる事やら」

「長井新九郎か、うちのお屋形様と同じ名じゃな。大物になるかもしれんな」と小太郎は笑った。

「それで、飯道山の後、大峯に行ったのか」と小太郎は玉滝坊に聞いた。

 玉滝坊はうなづいた。「大峯と熊野で修行して、先達(せんだつ)となり、さらに聖護院(しょうごいん)に入って、本山派(ほんざんは)の先達年行事職(ねんぎょうじしき)となりました」

「何ですか、本山派の先達年行事職というのは」と三郎は玉滝坊に聞いた。

「亡くなられたお屋形様にな、関東の山伏を一つにまとめてくれと頼まれたんじゃよ」と玉滝坊は言った。「山伏は大まかに分けると天台宗系と真言宗系の二つに分けられるんじゃ。天台宗系を本山派といい、真言宗系を当山派(とうざんは)というんじゃ。二つに分けられるといっても、はっきりと分かれているわけではない。大峯山には天台宗系の山伏もいるし、真言宗系の山伏もいる。お山というのは修行の場であって、どっちに属していようとも修行できるようになっている。飯道山もそうじゃし、大山も箱根もそうじゃ。はっきり言って、山伏たちを一つにまとめる事は難しい。しかし、いつかは誰かがやらなければならん。新しい国を作るためには、山伏たちを一つにまとめて、伊勢家の支配下に置かなければならんのじゃ。わしは引き受ける事にした。関東の山伏をまとめるに当たって、わしは本山派を選んだ。元々、わしは天台宗に属していた事と、本山派の方がまとめやすいと思ったからじゃ。本山派の中心は京都の聖護院じゃ。聖護院の門跡(もんぜき)は四十年程前に、本山派の支配を強化するために関東を旅した事があるんじゃ。反面、当山派の方は上方での支配力は強いが関東では弱い。山伏たちはそれぞれのお山との結び付きは強いが、天台宗とか真言宗とかにはこだわらない者が多い。たまたま師匠が天台宗系だったから天台宗系の山伏になり、真言宗系だったら真言宗系の山伏になるといったようなもんじゃ。わしはお屋形様のお力で聖護院に入り、修行を積んで先達年行事職を手に入れた。この資格があれば、相模国内の山伏たちをまとめる事ができるんじゃ」

「山伏たちにもそんな組織があったのですか、知りませんでした」

「組織といっても、まだ完全ではない。聖護院が全国の山伏たちをまとめようと考えたのも元々は銭集めなんじゃよ。応仁の乱以後、公家や寺社の荘園は武士たちに奪われ、公家たちは地方に行き、芸を売って生きるようになり、寺社は武士の保護下で生き残るようになった。聖護院も門跡寺院として多くの荘園を持っていたが、ほとんどを失い、生き残るために全国の山伏をまとめて、役銭(やくせん)を集めようとしたんじゃよ。もっとも、組織というものは上の者が権力を振りかざして、下の者から銭を吸い上げるために作られる事が多いがのう」

「風摩党の組織もですか」と三郎は冗談半分で聞いた。

「うむ。風摩党にもないとはいえん」と小太郎は真剣に答えた。「伊勢家が大きくなるにつれて、風摩党も大きくなり過ぎた。父上が首領の頃、父上は風摩党の者たち、全員の顔を覚えていた。しかし、こう風摩党が大きくなると、わしには全員の顔が分からなくなって来た。一番組、二番組、五番組はいいとしても、三番組と四番組は人数が多すぎて、とても、一人の頭では目が届かん。関東のいたる所に潜入しているからのう。この間、三番組の者が博奕(ばくち)にのめり込んで、配下の者たちから銭をかき集めていたのが発覚した。そいつはわしの名を出して、銭を集めていたそうじゃ。また、四番組の者が自分のために盗みを繰り返していた事もあった。そいつらは見せしめとして殺したが、隠れて、悪さをしている者たちも多いじゃろう。特に四番組の者たちは盗みの術を身に付けている。一歩間違えば盗っ人になる。その一歩というのは説明する事は難しい。本人の判断に任せるしかない。四番組に入れる時、武術の腕だけでなく、性格とか人間性とかも考えて入れてはいるが難しい。前に愛洲殿がそのうちに目付(めつけ)を入れなくてはなるまいと言っていたが、確かに組織が大きくなると、それを取り締まる目付役が必要かもしれん。仲間たちを信じていないようで嫌な事じゃがな」

「目付役か‥‥嫌な役目じゃな」と玉滝坊も言った。「しかし、風摩党をまとめて行くには必要かもしれん」

「若様、愛洲殿は目付役が必要になった時は若様に頼めと言っておった。風摩党を取り締まる者は伊勢家の者でなくてならんとな」

「私が目付役ですか」と三郎は驚いて、小太郎と玉滝坊の顔を見比べた。

「今はまだいい、先の事じゃ。一応、考えておいて下され」と小太郎は言った。

「実際問題として、そいつは難しいぞ」と玉滝坊は言った。「風摩党の者を配下に使う事はできまい。となると、また、別な組織を作らなければならん。風摩党には分からんようにな。しかも、風摩党の者以上の腕を持っていなくてはならん。難しいのう」

「甲賀から連れて来るしかあるまいな。まあ、その話は、目付役が必要になってからでいい。この事は皆には内緒じゃ」

 三郎は目付役なんか必要ない事を願った。人のあら捜しをするような事はしたくはなかった。しかし、伊勢家の勢力が大きくなればなる程、風摩党の者が増えるのは当然の事だった。

 風摩党の者は敵地にばかりいるのではなかった。侵入して来る敵の忍びを倒すために、味方の城下には必ずいる。今現在でも、小机を初めとして、多米三郎左衛門の青木城、伊勢新六郎の玉縄城、山中修理亮の三崎城、愛洲兵庫助の浦賀城、大道寺蔵人(くろうど)の鎌倉の代官所、福島(くしま)伊賀守の大庭城、大藤金谷斎(きんこくさい)の田原城、伊勢新九郎の小田原城、笠原新左衛門の韮山城、富永三郎左衛門の丸山城、清水太郎左衛門の加納矢崎城と守るべき所はかなりある。江戸城を落とせば、そこも守らなくてはならなくなる。

 組織が大きくなれば、当然、規律を乱す者は現れるだろう。風摩党が伊勢家と共に生きて行くためには目付役も必要かもしれない。そして、その役をやれるのは自分しかいなかった。嫌な役だが、その時は引き受けなければならないと三郎は覚悟を決めた。

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